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「広重 名所江戸百景」から「深川三十三間堂」 |
江戸には京都を模したものがある。三十三間堂は江戸の弓師が建設を願い出た。京都のものとは使用目的が異なる。京都の三十三間堂は千手観音を安置する堂宇として作られたが、深川は弓矢の稽古場として作られた。三十三間堂は当初浅草松が谷町にあったが、元禄十一(1698)年に焼失すると、出資者である材木問屋の貯木場近くに再建した。明治維新後の廃仏毀釈や弓道の衰退により明治五(1872)年に取り壊された。戦前は数矢町として「矢」の名だけが残っていたが、現在は富岡二丁目となっており、数矢小学校の名称に僅かに名残がある。
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「広重 名所江戸百景」から「深川木場」 |
江戸開府当初の建設ラッシュの時期には日本橋周辺に材木置場が点在していたが、寛永十八(1641)年の火事が契機となり、深川への移転していった。貯木場はやがて集約され、元禄十八(1703)年、幕府から「深川木場」と命名された。川並と呼ばれる筏師があふれた街であったが、貯木場は夢の島・新木場に移り、都立木場公園に変容した。しかし今でも材木商が散在する街角である。
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「広重 名所江戸百景」から「深川洲崎十万坪」 |
洲崎から十万坪方向を俯瞰する。洲崎は江戸湾の出洲で、例によって弁天社がある。十万坪は隅田川下流の低湿地で、享保年間に深川商人の願出により埋立・干拓された。おおよその広さから十万坪と称された。現在では東陽町の北側、江東区千田、千石のあたりである。
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