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「広重 名所江戸百景」から「両ごく回向院元柳橋」 |
薬研堀にかかる元柳橋。「元」が付くのは、神田川河口に柳橋が架橋されたことによる。
手前は相撲櫓の触太鼓。相撲興行は寛文年間(17世紀中葉)に寺社奉行の許可が出、
両国回向院に定場所となるのが文政年間(1820年代)だという。
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「広重 名所江戸百景」から「両国橋大川ばた」 |
両国橋の両国とはよく知られるように、下総国と武蔵国を渡したところから来ている。
現に両国駅は総武本線の駅でもある。
両国橋は明暦大火(明暦三(1657)年)以後の本所開発の要となる事業で、当初は単に大橋と呼ばれた。
両国橋両詰の賑わいは現在からは想像を逞しくする必要があるが、江戸東京博物館の常設展示の模型で往時を偲んでもよい。
大川端とは江戸市中からみて隅田川東岸を指す言葉だが、現在では両国一帯というよりは、
リバーシティの影響で、月島から佃あたりを指すような印象が強い。
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「広重 名所江戸百景」から「浅草川大川端宮戸川」 |
両国橋下の舟上から上流を臨んだ絵とされる。
手前に二組の大山講の社中が描かれ、ここで禊をしてから大山に向かうのが、夏の行事だったようだ。
浅草川、宮戸川はそれぞれ隅田川の別称で、
浅草川はこのあたりの右岸(西岸)に近い方、宮戸川は浅草に架かる大川橋(吾妻橋)から上流。また大川端は東岸一帯を指す。
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「広重 名所江戸百景」から「両国花火」 |
花火の打ち上げは両国橋の夕涼みに欠かせないものであった。
花火は始め全てが輸入物だったが、万治年間から鍵屋弥兵衛が製作を始め、
17世紀後半には大きな花火も試作されるようになった。
享保十八(1733)年、将軍吉宗は疫病と飢饉を払うため、両国橋で花火を打ち上げることを鍵屋に命じた。
旧暦の五月二十八日のことで、以後川開きとして恒例化した。
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