明治11(1878)年 実測東京全図
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内務省地理局作製。明治政府によって作られた最初の東京地図である。明治22(1889)年の市区改正(=都市計画)前の東京市の町、村の姿が表され、明治初期の東京を知るためには貴重な地図である。
地形表現にケバを使うなど土地の起伏に対する配慮がある。
土地利用については明治維新という革命を経て、徳川宗家、御三家、大名地は、官用地となり、皇居、軍用地、官署地に変化した。葵の御城は菊の皇城(因みに四枚の地図で最も皇居の描写が詳しい。最も御上に対する憚りの意識が少なかった時代なのだろうか。)に替わった。浜御殿と浜離宮の関係も同様。その対岸の尾張家下屋敷は海軍省に。大手町から霞ヶ関にかけては押し並べて官署や軍用地になっているが、内務省、大蔵省、文部省などの官署は神田橋から一ツ橋に押し込められ、騎兵隊や練兵場など、大手町の南半分から、丸の内、皇居内苑、霞ヶ関、永田町までほぼ陸軍の土地のように見える。
その他では、赤坂の紀伊家上屋敷が、御所地(現在の赤坂御所及び迎賓館)に、市ヶ谷の尾張家上屋敷が陸軍士官学校(現在の防衛庁)に、戸山の尾張家下屋敷が陸軍戸山学校(現在は再開発され国立国際医療センターなど)に、水道橋の水戸家上屋敷が陸軍砲兵本廠(=工場)(現在の東京ドームなど)に、本郷の加賀前田家上屋敷及び水戸家中屋敷が文部省用地と陸軍省用地(現在の東京大学)になったのが、主なところであろう。
しかしこの時期特筆したいのは、新橋停車場と鉄道である。地図ではもとの脇坂家中屋敷、松平陸奥守(伊達)家上屋敷(山本周五郎さんの「樅の木は残った」の舞台)、松平肥後守(会津)家中屋敷をぶち抜いて停車場用地となっている。またそこから伸びる線路も特段の固有名詞で形容されもせず、南に伸びている。地図上ではただ「鉄道」でしかない。
もうひとつ指摘するとすれば、東京市の境界や、各区の境界である。赤線で示されているが、相当に入り組んでいる。江戸時代の町方と村方の縄張りはそのままに至っているのだろうという印象を受ける。また軍用地は東京市の内部として描かれており、政治的効率性や強権性が推測できる。
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