神保町
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司馬遼太郎さんの「街道をゆく」シリーズに「神田界隈」がある。参考になる記述が多い。
「幕末、さらに二つの官立学校ができた。
ひとつは、のちに明治になって東京大学になる洋学機関の開成所である。
安政四年(1857)開校以来、名称が、よく変わった。神田小川町に設けられた当初は蕃書調所で、五年後に神田一ツ橋門外に移って洋書調所になり、やがて開成所になった。明治早々は開成学校とよばれた時期もある。(「漱石と神田」の項より引用)」
明治11年地図には今の竹橋(毎日新聞、住友商事)に文部省があり、それを背景にして今の神田錦町の開成学校、東京英語学校がある。
さらに昭和4年地図にも文部省がこの地にあることが分かる。ただし場所は若干移動し、今の気象庁の場所である。その気象庁(当時の中央気象台)は今の丸紅の地にあり、その隣、今の毎日新聞の地には、当時、東京外国語学校が置かれている。さらに北側の一ツ橋を渡った商科大学を指摘しておかねばならないだろう。
戦後、文部省に始まり、商科大学(一橋大学)などが神田を去った。
神保町について少し言及したい。明治初年の地図を見ても、「表」神保町と「裏」神保町があることが分かる。「表」には今のすずらん通りがあり、当時のメインストリートだったとされる。その後、大正通り(現・靖国通り)が計画され、「裏」にメインストリートが通ることとなった。現在はもう裏も表もない街になっているようだ。
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