日本一巡~晴行雨読~ 利尻富士から歩いて薩摩富士へ
第8日
 路傍の花と栃木市嘉右衛門町
 2016年05月10日(火)
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(1)樅山駅から合戦場まで
 前回は4月の桜の季節を日光から杉並木の例幣使街道を進み、鹿沼市樅山駅まで来た。今回は季節が1ヶ月進みゴールデンウィーク後の5月。例幣使街道を引き続きたどり、栃木市嘉右衛門町が目的地となる。尾瀬から奥日光といった山中を主にたどってきた順路が前回から人家が続くようになってきた。今回はますますその傾向が強まるだろう。これまでは北千住駅から快速電車に乗って東武日光駅などに向かったが、今回はいつもの時間の快速電車でなく、一本遅い浅草を9時過ぎに出る快速電車を選ぶ。始発の浅草から乗るので悠々とした気分で始められる。いつもの旅の序曲がいつものように過ぎていく。高架から見下せる遥かに広がる町並み、複々線の高架から降りてからの郊外の家並みや田園、利根川にかかる長大鉄橋を次々と通過していく。新大平下駅近くの日立社工場を過ぎ、浅草から1時間半ほどで新栃木駅着。
 ここで各駅停車に乗り換える。今回の目的地は栃木市嘉右衛門町で、その最寄り駅はこの新栃木駅である。今日はこれから電車で行って歩いて帰ってくるルートとなる。ここまでくると電車の本数は1時間に一本である。特に快速電車と接続せず、20分ほど待って各駅停車の電車が来た。沿線の風景は特に目を奪われるようなものはなく、曇天のなか樅山駅着11時20分。新栃木駅からさらに1時間ほどかかって到着した。前回は菜の花や桜に包まれた駅であったが、菜の花は既になく桜木も葉を青々と茂らせており、だいぶ印象が異なる。徐に歩き始める。まずは例幣使街道に合流する必要がある。線路に沿いつつも、畑と家が混在する田園を進んでいく。廃墟のような跡ももちろん目につくのだが、案外と洒落たログハウス風の住宅も点在する。いかにも農家というたたずまいの家もあるのだが、それだけではないのが驚きであった。くるまの通る現代の例幣使街道を延々と歩いてきたが、街道を離れて歩くのも、むしろ楽しい。辻には地元の人の丹精が偲ばれる地蔵もある。赤の毛糸で帽子や前掛けが作られ、石の肌ととても緋色具合があっている。
 奈佐原町で例幣使街道に合流する。奈佐原宿は、鹿沼の次の宿である。鹿沼からは文挟、板橋、今市、鉢石と続き、日光神橋が終点である。逆に奈佐原から京都側へは、楡木、金崎、合戦場、栃木と続き、今回はその順路を概ねたどることになる。奈佐原はこれまでの町並みと変わることはないが、時折、門構えが立派な家に出会う。前回も時々感じていた。名主的な家なのであろうか。大型車も比較的通行する例幣使街道を進んでいくと、楡木追分に至り、壬生街道を分ける。壬生街道は日光西街道とも呼ばれ、ここから本来の日光街道小山宿に合流することができる。バイバスである。ここまで例幣使街道の一里塚を通ってきたが、例幣使街道の一里塚でなく、日光西街道の一里塚として日本橋起点として設置されていたものだ。むしろ江戸を中心にして、この楡木から中仙道・倉賀野宿をバイバスしたというほうが実態に適うのかもしれない。とはいえ現実は広幅員の舗装道路の三叉路であり、それほど往時を偲べるわけではない。標識は「国道293号線 足利・栃木」方面と記載されているが、それを「例幣使街道 京・中仙道」に至る道と読み替える。
 楡木から金崎の間は、落ち着いた田園の家並みが続く。門構えのしっかりした屋敷もあり、一面のカーネーションやあやめが咲き広がる場所も点在していた。東京から見れば名も知れない地方に確かな豊かさがあるのだと教えてくれる。優劣ではないのだと思う。これ以上もっと書けるが、この辺で止めておく。
 道は河川堤防上を進むようになり、右に思川に架かる小倉橋が見えてくる。前回の黒川から下流で渡渉するためか、少し川幅が広い気はするが、今朝電車で渡った利根川などに比べると誤差の範囲であろう。利根川は関東平野にある無数のこのような中小河川を受け入れて大河川に育っていくのであろう。小倉橋を渡り、すぐ左に折れる。国道293号線はここからバイパスとなるので、旧道と思しき道をゆく。車輌の通行は皆無となる。どこを進むと例幣使街道なのか定かでなかったが、幅員の広い遊歩道があるので、それを歩く。少し行くとポケットパークがあり、日当たりがよいためか藤色が褪せた無人の藤棚が出迎えてくれる。住宅街の只中のお昼休み時間なのだか時間が止まったようだ。藤の花が風に揺れるため、かろうじて時間の揺らぎを感じられるが、何もない春の昼過ぎである。ちょっとした道路工事の脇を抜け、街道に出る。しかしこれまで通ってきた国道でなく、県道なので車輌の通行が減っている。またはるか先まで直線が続いているようだ。車輌が少ないので歩きやすくなったのだが、単調なのでやや忍耐を要する。
 午後2時を過ぎ、スーパーが見えてきたので入り弁当を買う。一段落する。駐車場を隔ててコインランドリがあり客もいなかったので、そこで弁当を広げる。逃げるように食事をし、スーパーを後にする。古い規格の道路のためか、歩道は相変わらず狭いのだが、車輌の通行量も少ないので淡々と歩いていける。前回のような桜の季節ではないが、沿道の住宅の軒先を掠めるように歩くので、時折丹精している春の花々が単調な行程を楽しませてくれる。形も色も様々な花々に出会うことができる。比較的古く(とはいえ昭和なのだろうが、)から住宅地化しているようで、生活臭を感じる。
 途中、戦国時代の史跡である升塚に立ち寄る。戦闘の結果、数百人規模の戦死者が出、その遺体を集めて塚として弔ったものだという。日光戦場ヶ原のへびとむかでの戦いから、だいぶリアリティが出てきたが、人間世界の只中にいるということだろう。実際、すぐ近くに合戦場という駅もある。例幣使街道に面した合戦場郵便局はユニークである。周辺にとくに観光スポットがあるわけではないが、軒先には金色の郵便ポストが立っているのである。しかしどうやら現役でなく、投函しないでほしい旨の注意書きがある。その向かいには、小平浪平という人士の生家という掲示がある家屋がある。この小平浪平(おだいらなみへい)という人は、明治七年生れ。小坂鉱山、日立鉱山を経て、日立製作所の創始者だということである。遠目には渋い日本家屋という趣きであるが、足尾もそうだったが、地方にはそういう日本の来し方に思いを巡らせるきっかけとなるものが残っているということだろう。

(2)栃木市嘉右衛門町と栃木市街
 例幣使街道は東武日光線を越えるため上り下りする。その頂上から新栃木駅に隣接する電車庫を見下ろせる。昼間なので、半分くらいの線路には四角い形の電車たちが休んでいた。坂道を下ると栃木市街で、例幣使街道の本道は県道とは別の道となる。私は当然県道と別れ、幅員の狭い旧道を行くことになる。大町という地区は目的の嘉右衛門町の北隣だが、ここにも十分に価値のあるであろう古店(ふるだな)が集まっている。実際、教育委員会名による由緒書が掲示されており、文化財指定されていることが知れる。
 大通りを越えて嘉右衛門町に入っても街の雰囲気は当然のことながら変わらない。道は適度な幅員があり、道の左右に立派な日本家屋・店舗建築が点在する。漆黒の板張りの日本建築である。今日は一日曇天であったが、案外それもよいものだと思わせる。高揚した気分で歩いていくと岡田記念館前に至る。その由緒書に拠れば、岡田嘉右衛門は現当主で26代。栃木市屈指の旧家。元は武家だったが、近世初頭の慶長年間に帰農し、例幣使街道栃木宿本陣、近郷一円の代官職も務めたという。その邸内が岡田記念館として公開されている。時間に余裕があれば入ってもよかったが、午後5時までの開館時間のところ既に4時半を回っており、素通りすることにした。すぐ近くに巴波川(うずまがわ)に架かる石橋の嘉右衛門橋があり、さらに入ると翁島と名づけられた岡田記念館の別邸があるが、こちらにも入館料が必要な施設らしく下男たちが働いているようであった。
 岡田記念館を過ぎ、現代の栃木市の中心部に近づいても、いくつか由緒ある建築物が点在して楽しませてくれる。「伝統的建造物群保存地区」であるのだから見所が連続しているのはある意味当然であるが、なかなかに楽しい。しかし観光地として宣伝されているのは実はもっと南側の地区にある。栃木市役所と東武デパートが一体となったビルで一服してから更に歩いていくと、巴波川沿いの遊歩道にでる。曇天であり、また既に5時を回り薄暮になっているのでランプに明かりが点っている。横山郷土館、塚田歴史伝説館といったスポットは営業時間を過ぎてしまい、これらも外から眺めるだけだが、それでもよい。季節柄であろう、塚田歴史伝説館前の巴波川上空には、色とりどり無数の鯉のぼりが泳いでいる。漆黒の店舗に色彩を添えて、絵になる光景になっている。と、十分に栃木の街を縦断して楽しんだのち、雨が落ちてきた。朝の思惑とは異なり栃木駅まで歩くことにする。今回の中断点は栃木駅となった。


(*1)史跡 升塚
昭和45年3月24日 都賀町教育委員会指定
1、規模および形状
・基壇の底面 21.6mの方形
・中壇の底面 16.2mの方形
・上壇の底面 10.8mの方形
・墳頂までの高さ 3.6m
2、升塚の由来
 今から438年前、大永3年11月3日皆川城主宗成と嫡子成勝は川原田を中心に陣を張り、宇都宮城主忠綱の軍勢1800余を迎え討った。両軍譲らず大混戦となり、その雌雄決せず、翌日、小山、結城、壬生の援軍を得て、宇都宮勢を敗走させた。この戦いで皆川勢は宗成以下37人、小山勢13人、壬生勢10人、宇都宮勢は250人の死者を出し、里人はこの戦死者を一箇所に集め葬ったと伝えられている。詳細については塚上の碑文、皆川正中録(教育委員会保存)を参照されたい。  平成18年1月1日作製 都賀町教育委員会

(*2)小平浪平おだいらなみへい 身辺
 小平浪平が生まれたこの地、都賀町合戦場は日光例幣使街道の宿場でもあり、江戸時代日光東照宮に毎年四月、朝廷から幣帛の為の例幣使が京都から派遣されていた。門前の誕生碑は久原房之介翁の筆によるものであり、裏面には高尾直三郎氏(元日立製作所相談役)筆による碑文が刻まれている。小平浪平は東京帝国大学電気工学科を卒業後に秋田県の小坂鉱山に入社、その後数社を転職して最後の日立鉱山を辞し明治43年(1910)日立製作所を創設した。日本の工業技術を世界に高めた日立製作所の社是は「以和為貴 わをもってとうとしとなす」であり、これは日立精神の柱として現在も息衝いている。郷土の誉れである日立製作所の創設者小平浪平氏の志と偉業を後世に伝えるため広く、この地が生家であることを歴史に刻み残すため作成したものである。  平成22年3月作成 都賀町教育委員会

(*3)大島肥料店店舗
国登録有形文化財第09-0026号 平成12年10月18日登録
 大島家は、江戸時代末期から肥料商を営んできた旧家で、旧日光例幣使街道に面した見世蔵(店舗)は、初代元平が明治15年に建設したことがわかる。建物は棟行四間半、梁間二間半(約11坪)で、切妻造・平入・二階建、下屋庇付の土蔵造漆喰仕上げとなっている。日常の戸締りは、揚戸により行い、一階内部には帳場・梯子段および押入を設け、その他は土間としている。下屋両端の腰部石積みや二階の窓庇の鉄製装飾、軒の鉢巻に特色がみられる。栃木市の商業の最盛期にあたる明治前期に建設された典型的な店世蔵は、市内でも数少ない事例であり、大変貴重なものとなっている。なお店の奥には土蔵三棟(上棟:北から明治14年・同20年・大正6年)と石蔵一棟(昭和6年)などが残されており、商家のたたずまいを今によく伝えている。  栃木市教育委員会

(*4)岡田嘉右衛門家由来書
 当家は、現当主嘉右衛門氏をもって二十六代を閲すると伝えられる本市屈指の旧家である。古くは武家であったが主筋の衰亡により帰農し、近世初頭の慶長の頃この地に移住し、周辺の荒蕪地を開墾して当主の名に因み、嘉右衛門新田と称するものを経営大分限者となり地域発展の基礎を築いた。これが現在の嘉右衛門町という地名の起こりともなる。以後代々の当主は嘉右衛門を襲名し、日光例幣使街道の開設盛行に伴って、この地の名主役本陣と勤めた他、名門畠山氏の領地時代には近郷一円の陣屋も邸内に設けられた後に、その代官職に就任するなど、地区行政の面で大いに寄与していた。一方歴代当主は、芸術文化的分野にも関心が深く、その愛護収集にも意を用いた。巴波川の船便や街道の往還を通じて幾多の文人墨客の逗留があり、中央との文化の交流の当地の一大拠点であったといえよう。なかんずく明治二十二年、我が国画壇を代表する不世出の大画家富岡鉄齋の来訪があり、特別の交誼が結ばれたことは特筆すべきものである。

(*5)横山郷土館
国登録有形文化財第09-0007~10号 平成10年9月2日登録
 横山家は、かつては栃木でも有数の麻苧(あさお)問屋として知られていました。店舗は北半分が麻苧問屋、南半分が明治32年に設立された栃木共立銀行としてつくられており、出入り口も別々に設けられています。両側の石蔵は北側の麻蔵が明治42年、南側の文書蔵が明治43年の上棟で外壁はいずれも鹿沼産の深岩石が積まれており、小屋組みは木造のキングポスト(洋風小屋組)が用いられ、窓や出入口にも洋風の意匠が目立ちます。また文書蔵の軒には赤煉瓦積みの蛇腹を廻しています。庭園内には大正7年建築の離れ(洋館)があります。概観はハーフティンバー形式(壁面に柱や梁が露出する構造)を用い、内部は和風を基調としますが天井を洋風とするなど和洋折衷になっています。  栃木市教育委員会


c001 金崎シンボルロード

c002 升塚

c003_1 小平浪平 身辺

c003_2 小平浪平 身辺


c004 大島肥料店店舗

c005 岡田嘉右衛門家由緒書

c006 横山郷土館

c007 栃木街しるべ


c008_1 例幣使道

c008_2 例幣使道

c009_1 みつわ横丁

c009_2 みつわ横丁


c010 栃木市内案内

c011 山本有三 石碑

c012 蔵の街観光案内図

 



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2016/05/10
 11:20 樅山駅
 12:20 壬生街道追分
 13:10 小倉橋(思川)
 15:30 合戦場郵便局
 16:00 嘉右衛門町
 17:00 横山郷土館
 17:30 栃木駅


歩行距離:約20km