日本一巡~晴行雨読~ 利尻富士から歩いて薩摩富士へ
第7日
 日光杉並木と春の花々
 2016年04月14日(木)
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(1)東武日光駅から今市市街
 2016年4月14日 午前8時半、東武日光駅。この駅には昨年からもう何度も乗り降りした。尾瀬、奥日光、足尾それぞれの拠点となった。今日は今までのような山の方向でなく平地の方向へ歩みを始める。霧降の滝の次の目的地は栃木市嘉右衛門町重要伝統的建造物等保存地区になっている。栃木市は思川水系巴波(うずま)川に沿った蔵の街として知られ、日光例幣使街道の宿場だったそうである。嘉右衛門町は栃木宿の北側にあり、中心街ではないので開発圧力がやや弱く、伝統的建造物が残存したのだろうかと思う。日光例幣使街道は京から日光に遣わされた使者が通った道で、中仙道を倉賀野宿で分かれ今の栃木市から鹿沼、今市、日光に至る街道である。日光側は杉並木が著名である。当然のことながら日光から栃木市には例幣使街道が最短経路で、かつ杉並木の楽しみがある。今日は杉並木を堪能する日となるはずだ。
 東武日光駅を出ると、いきなり杉並木となる。東武日光駅から東照宮方向は歩道の広い明るい街路だが、下流方向は杉並木がすぐに始まる。植樹時期が揃っているためか、樹高が揃った間隔も密な落ち着いた並木である。しばらく進みJR日光駅に寄り道する。JRの駅は和洋折衷様式というのか「洋館」という語感にふさわしい建物である。かつて夏の間だけ各国の大使館員が避暑のため中禅寺湖畔に移動したという歴史が思い起こされる。
 杉並木はさらに続き、やがて車道と別れ歩行者のみが木立の中を往くように変わった。その入口に一本の桜があり、緑を背景にわずかに淡いピンクが凜として印象的である。木立は密生し暗く、ただ深呼吸するのを促すかのように空気に密度がある。草本の知識がないのでその名前がわからないか、深い緑色のなかに、紫色の小さな花が幾輪も連なっている。古い消火栓が道路脇に控えている。
 そうこうするうち、また車道に合流し路側帯を歩くことになる。木立の列はどこまでも変わらない。人家の向こうにJR日光線が通ったり、点景としての満開の桜など、杉以外に目を奪われることがないわけでないが、圧倒的な杉の巨木の列である。日光市野口からは少し開けてきたのか、国道から少し離れて並走することになるが人家も点在する。さらに歩いていくと車両通行止めとなり、徒歩のみ進めるようになる。しだれ桜を背負ったお堂があり小休止する。曇天であるが並木に空間があり空が臨める。大谷川にも近いようだ。いまの日光市は平成の広域合併を経て、以前の今市市なども市域に含んでいるので判然としないが、歩いていくうちに旧今市市内の領域に入っているようだ。東武日光線沿いに整備された杉並木公園は、さまざまな水車が点在して豊かな水の流れを強調している。実際、山地から平地に遷移する水の得にくいはずの扇状地上の土地にも関わらず水が得やすく、杉の生育条件に有利にはたらいている、と案内板に記されている。

(2)今市市街から鹿沼市街
 杉並木公園を抜けると瀧尾神社前に出、旧今市市街を歩くことになる。少しややこしいが現日光市役所は、旧今市市域にある。多少平日の午前中という時間帯を割り引きして考えると、今市の街の活気をそれなりに感じられたので納得した。国道脇に昭和からの商家が点在している。また豊富な水資源をうらづけるように道路わきに「いまいちの水」という立て札とともに水が飲めるようになっている。「いまいちの」水で喉を潤す。
 今市市街の東のはずれに、日光街道(国道119号線)と、例幣使街道(国道121号線)を分ける追分交差点がある。追分交差点までの商業地から住宅地に変わり深い杉並木も復活する。歩道もなくなるが、車輌の通行量も少ないので不安にはならない。JR日光線の踏切を越え、行けども行けども深い並木が続く。古い街道を起源に持つせいか必ずしも無機的に直線が続くわけではない。幾分、左右に上下にうねりながら歩みを進めていく。時折、路傍のこじんまりとした雑貨屋などに出会うこともあるが、杉並木を堪能する。ふいに片側の並木がなくなり、眺望が開けた場所がきた。遠くにJR日光線が見える。踏み切りの音が聞こえ、待つほどもなく電車が通過していく。田起こしをするトラクターの向こうに満開の桜が農夫を見つめている。森に入り日光宇都宮道路の下をくぐる。左に旋回する室瀬の急坂をあがる。ふたたびわずかな歩道が杉の落ち枝で埋まった道を歩いていく。案外と大型車が多く、そのたびに反対側車線にはみ出して、いつもいない歩行者をかわしていく。
 かれこれ永遠に続くかのように堪能していくと道は左に大きく折れ、幅員が倍ぐらいあるバイパスに合流する。路傍にある福生寺の桜が満開である。曇天ではあるが、十分に見ごたえがある。少しの間、空が見えていたが、一里塚(板橋一里塚)からはまた杉並木のなかを行くようになる。本当に果てしがない。放漫感に満たされていたところ、前から猫が進んでくる。びっくりする。幼稚園の送迎バスに動物の装飾がついていて、園児を楽しませる趣向なのだが、延々と続く杉並木のなかで、さらに猫バスが浮世離れさせてくれ目が覚める。
 朝から何時間も何キロも杉並木を堪能してきたが、風が出てきたのか満開の桜が細雪のようにはらはらと散る光景に目を奪われる。そっと近づく。昼下がりの田園は静かだ。音も立てずに私だけに華やいだ舞を惜しげもなく、いつまでも見せてくれる。今日の目的地は特に定めていないが、まだ午後1時あたりでまだまだ歩ける。しかし一期一会の出会いにまた歩き始める踏ん切りがつかない。こういう場合、ひとり旅は本当にありがたい。誰に気を遣うでもなく、一切が自分で決められる。まだ気分が熟していないと思うだけで、いつまでもそこに留まれる。なにかのなにげない心の動きをきっかけに旅を再開したのであろう。回想しながらこの文章を書いているが、歩みを再開したときの記憶は定かでない。あるのは春爛漫の満足感である。常緑の杉並木と一期一会の桜花。どこまでも歩いていける。
 さらに歩くと、並木の切れ目から線路が見えた。その土手に菜の花がいっぱいに咲いていた。もうひとつの春爛漫である。また近づく。タンポポやオオイヌノフグリも咲いている。平和なひとときであることを実感する。文挟駅近くは、やや家屋が建て詰まっているところもあるが、深い木立が卓越する。さらに下ると人も増えてくるためか、立派な城郭のような入母屋破風のお屋敷すら街道脇に点在するようになる。
 旧今市市域を含む日光市と隣接する鹿沼市との境界は明瞭だ。ここまでいくつかの例外箇所はあるとはいえ東武日光駅前から樹齢の揃った杉並木が延々と続く様は、徒歩であるが故に実感できるものであった。ここには杉並木を東照宮に松平正綱が寄進した旨の「並木寄進碑」があり、ここまでが日光神領だったとされる。ここから先も例幣使街道であることに変わりはなく、街路樹はあるのだが、日光杉並木との一体感はまったくない。樹種も既に杉でないのだろうが、密度の違いが著しい。前向きにとらえれば、道が明るくなったといえるが、神域を抜けて陰影がなくなったというほうが実感に適う。道の両側に工場が散在するようになるものの、満開の桜や菜の花畑も適度に表れ、春の散歩を楽しませてくれる。工業団地入口を過ぎ、路傍に丹精したチューリップやパンジーの花壇も表れるようになり、人間の密度が増してきたようだ。昭和からと思われる食堂の駐車場に、まさに満開の桜が、やや傾いた柔らかい春の日を一身に浴びている。明日、明後日にはある程度散ってしまうのかもしれない。 天津風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ という百人一首があったが、いまは逆に、おとめの姿をしばしとどめたいので、風よ吹かないでほしい、という心境でもあり、限りある美しさだからこそ尊い、という感覚もある。

(3)鹿沼市街から樅山駅
 例幣使街道は鹿沼市街に入り、河岸段丘を下り御成橋で黒川を渡る。黒川は日光の南側の山塊を源流とし、鹿沼市・壬生町を通り思川に合流する。両毛線の駅名にもある思川は旧谷中村の渡良瀬遊水地付近で渡良瀬川に合流し、渡良瀬川は栗橋付近で利根川に合流することになっている。そんな長途のある水流だが、いまは上流から長い中流域に出ようとするあたりで、水量もそれほど多いわけではない。日はだいぶ傾き時刻は16時前になっている。そろそろ今日の目的地をはっきりさせる必要が出てきている。ここからの例幣使街道は東武日光線に沿ったものとなる。次の目的地である栃木まではもともと無理だと考えていたが、鹿沼から栃木までの途中駅でどこまでいけるかということだ。新鹿沼・樅山・楡木・東武金崎・家中・合戦場・新栃木と駅が続くが、最初は楡木までと考えていたが、直線でもおよそ8kmある。つまりは2時間必要ということで、春の日が持たない。やや先を急ぐ。
 鹿沼市街に入り、こざっぱりした住宅にドイツ車が2台停まっていたり、立派な商家が残っていたり、失礼な感想ながら案外地方都市も捨てがたいものがあると知る。表通りのメインストリートで、目立つ場所だとはいえ認識を新たにする。鹿沼市役所前を抜け、仲町屋台公園内の収蔵庫に展示してある「屋台」を見る。祇園祭りや飛騨高山祭りなどで見る山車のようである。収蔵展示にあたり空調等にも配慮されているようで、東照宮などに見られる彫物をガラス越しながら間近に見られる施設になっている。案内板に拠れば、白木彫刻が前面に施された屋台(山車)は全国的にも珍しいのだそうである。
 鹿沼の中心市街地まで来た。石橋町交差点というようだが、さきほどの鹿沼市街の好印象を割り引く光景が現れた。目抜き通りだというのに更地が目立つのである。しかもその交差点には廃墟のようなビルが一棟立っており、一見して寂れている感が漂う。ちょっともったいない。新鹿沼駅通過はだいたい16時30分ごろ。少なくとももう一駅、樅山までは行けそうだ。新鹿沼駅を越えると市街地の風情はだんだんと失せ、住宅と事業所と通過交通が卓越するようになる。幅員が広くなり交通量も増してきて、やや気分も萎えてきた。今日は樅山駅までとする。新鹿沼から樅山駅までと、樅山駅から楡木駅まではほぼ同じくらいでいけないわけではないだろうが、楡木につく頃にはかなり暗くなってしまうだろう。街道沿いの大型スーパーマーケットに入り、帰りの弁当とビールを買う。
 そこから例幣使街道を離れ、樅山駅にまっすぐに伸びる道を行く。駅前には雑貨屋が一軒あるきりであるが、空き地には一面菜の花が咲いている。ホーム越しに桜の大木があり、今日の一日を終えるにふさわしい穏やかなたたずまいの駅であった。そんな駅を日光行きの特急が駆け抜けていった。反対方向の電車に乗った女子高生たちを見送ったのち、他日を期して春の花々の囲まれた樅山駅から帰途についた。


(*1)並木太郎 日光市七里
周囲5.35米 樹高38米、材積33.5立方米

(*2)日光並木街道の物語(野口地区)
 日光杉並木街道は通称、日光(鉢石~大沢)・例幣使(今市~文挟)・会津西(今市~大桑)の三つの街道から成り、今から約360年前の寛永2年(1625年)から慶安元年(1648年)にかけて植栽され、現在では約13,300本が並木の総延長37kmにかけて残されており、正に「国の宝」として特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けています。この杉を植栽した松平正綱は17才で徳川家康に仕え、後に幕府の経理を預かる勘定頭(のちの勘定奉行)になり、家康没後は、度々日光を訪れ、将軍の社参や祭典、または東照宮の警護や修理にも活躍し寛永2年(1625年)多年の幕府に対する功労が認められ、2万2千石の大名に任ぜられました。徳川家康を崇敬した松平正綱が日光東照宮の参道である街道に杉を植えたのは、東照宮をはじめとする聖地日光への道の景観を整えるとともに、風雨や日照等の自然環境から旅人を保護するために行ったものと言われております。杉並木を歩きながら、往時の旅人の事などを考えてみるのも楽しいことでしょう。なお、この道は昭和61年8月10日”日本の道100選”(建設省道の日実行委員会)に選ばれるとともに、親しみやアメニティーの高い道づくりを目指して整備・修復事業を実施してきたものであります。  平成5年3月 栃木県

(*3)杉の自然と植生
 公園周辺に植えられている杉のうち、最も古いものは江戸時代初期に植えられ、約360年を経て今日に至っております。樹高は約45m、直径約1.8mと大変大きなものです。ここで少し「杉」のことについて考えてみましょう。「杉」は日本特産で、各地に広く自生し、また有用樹種として最も多く植林されています。スギの学術名:Cryptomeria Japonica なお、大きな分類でのスギ科では世界に8属、15種あり、日本には2属、2種が自生しています。日本で最も長寿と言われる鹿児島県屋久島の杉は3000年を越えるものがあります。これに比べると、日光杉並木は10分の1程度の年月しか経ってなく、屋久島の杉とでは子供みたいなものですが、数を含めた並木の延長では正に世界一であります。また我が国においては、杉の代表的な産地があります。地名を冠にして、「秋田杉」(秋田県)、北山杉(京都府)、「身延杉」(山梨県から静岡県にかけて)等と呼ばれています。これらの産地はいずれも雨が多いことがあげられ、水を好む杉にとって必要不可欠の要素なのです。それでは、前記した産地に比べて雨量が少ない日光地域の杉がどうしてこんなに大きく育ったかというと、大谷川の伏流水(河川の下に、自然に溜まった水をいう)によるところが大きいといわれています。この案内板が立っている左側に大谷川がありますが、この大谷川は中禅寺湖に源を発し華厳の滝を経て本地域周辺を流れており、正に奥日光全体の自然そのものがこの杉並木を育ててきたことになるのです。自然は本当に雄大で神秘的です。こんなことを考えながらもう一度「日光杉並木」を鑑賞してみてください。  平成5年3月 栃木県

(*4)貴重な文化遺産「日光杉並木街道」を後世に残すために
 日光杉並木街道は、我が国で唯一、国の特別史跡・特別天然記念物の二重指定を受けた世界に誇れる貴重な文化遺産です。その杉並木が今、環境の悪化などで毎年少しづつ失われているため、栃木県では様々な杉並木保護事業に取り組んでいます。ここでは、そのうちの一つとして、杉の根を保護するための工事(ポカラ工法)を実施しました。
 【ポカラ工法】道路と並木敷との高さが違う場合、その段差をなくし道路の下まで杉の根が伸びられるようにするため、畑土に畜産堆肥などを混ぜた土壌を詰めた中空コンクリートブロック(ポカラ)を埋設する工法。この他に、杉の根が露出している場合、木の柵で土どめし、そこに畑土に畜産堆肥などを混ぜた土壌を入れて根元の状況を元に戻す「木柵工法」も実施しています。

(*5)杉並木と参詣(瀬川地区)
 この案内板が設置してある今市市瀬川地区は日光街道の今市宿(1番目宿の千住宿から数えて20番目)と鉢石宿(現在の日光市で日光街道最後の宿)の間にあり、江戸(いまの東京都。起点は日本橋)からの距離は34里(約136km)です。日光街道というと、江戸時代は五街道(東海道、中仙道、日光街道、甲州街道、奥州街道)のひとつとして、人や物や情報が行き交う重要な交通路でありました。特に日光東照宮への参詣のために、公家・大名・文人や数多くの庶民がこの並木の中を行き交い、徳川将軍家みずから日光東照宮に参詣することを日光社参といわれ、その多くは東照宮例大祭(4月17日)に参詣したそうで、このときもこの並木の中を通行しました。最後の日光社参となった天保14年(1843年)に第12代将軍家慶社参の時には、時の老中水野忠邦が幕府の権威回復のために実施したといわれ、この時の供奉した人数が14万人余におよぶ大行列であり、この事業のために幕府が要した費用は莫大なもので、人馬調達や助郷役が命じられた村々は関東一円におよんだといわれる。往時の街道風景を偲びまた徳川家康公の御遺訓”人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し、いそぐべからず”の言葉をかみしめながら、杉並木道を歩いてみてください。  平成5年3月 栃木県

(*6)今市総鎮守(瀧尾神社)
祭神 大已貴命おおなむちのみこと(大国主命) 田心姫命たごりひめのみこと 味耜高彦根命あじすきたかひこねのみこと
天応2年(782)勝道上人 日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に 当所琵琶ヶ窪 笄(こうがい)の森に之を祀るに始まる。その後 人皇第百弐代後花園天皇寛正元年(1460)正月十五日改築 今日の神域整う。明治十年七月 近郷十八ヶ村(日光今市)の郷社に列せらる。
御神徳 国土の安泰 産業開発 農耕豊穣 縁結安産授児 交通守護 医薬醸造の祖神として尊崇さる。
御祭典 例大祭 四月十四、十五日 氏子町内には彫刻家体、六台 花家体、四台があり この日に奉納引廻しがある。山岡鉄舟筆 大幟(長さ十三間、巾一間)もこの日に奉掲さる。
御境内には 皇太神宮 市神々社 八坂神社 八幡宮 稲荷神社 雷電神社 琴平神社等の末社がある。

(*7)地震坂 今市市明神
昭和24年12月26日 今市市を中心に突如大地震が起こり、地すべりにより杉並木が移動した坂で別名「地すべり坂」とも呼ばれる。本来の街道はこの上にあった。

(*8)板橋一里塚
江戸日本橋より小山、壬生を経て凡二十七里(約108km)

(*9)小倉一里塚
江戸日本橋より小山、壬生を経て凡二十七里(約104km)

(*10)並木寄進碑 今市市小倉
 松平正綱公が杉並木を植栽して東照宮に寄進したことが記された石碑である。並木の基点となる神橋畔および各街道の切れる今市市山口(日光街道)、同小倉(例幣使街道)、同大桑(会津西街道)の四ヶ所に建っている。この碑は日光神領の境界に建てられているので境石と呼ばれている。

(*11)仲町屋台公園・屋台展示収蔵庫
 この施設は、国の重要無形民俗文化財「鹿沼今宮神社祭の屋台行事」に使用される仲町彫刻屋台の収蔵と展示のため、「木工のまち鹿沼」のシンボルとして、旧鹿沼郵便局(旧下野中央銀行鹿沼支店)跡地に建築され、平成5年(1993)10月に開館しました。建物は、宿場町としての歴史に合わせた純和風の外観に加えて、屋台の保存環境に配慮した自然換気のできる土蔵造りで、無人の施設ながら、中廊下を挟んで彫刻屋台を展示する屋台展示収蔵室と祭の概要を展示する小規模展示室があり、ガラス越しに屋台を見学することができます。内部に展示している仲町屋台は、天保7年(1836)に建造された白木彫刻屋台で、鹿沼市の有形文化財(工芸品)にも指定されています。  鹿沼市・鹿沼市教育委員会

(*12)屋台の各部名称
 寛政六年(1794)に、それまであった「踊り屋台」の再造というかたちで、彫刻屋台の祖形が仲町で完成しました。この屋台は漆塗りで、その後の行方は不明ですが、天保七年(1836)に新たな白木屋台が完成しています。白木彫りといっても火炎や口内などには朱を入れます。さらに仲町のものは緑、青、黄、白、黒、金色を要所に使い、白木の素材をひきたたせ、見せる彫物として徹しています。また彫物自体、精巧無比で鬼板は雄大かつ躍動感あふれる波間の龍、外欄間は繊細な花鳥彫り、見せ場の脇障子は牡丹と孔雀の華麗な取り合わせといった具合に、実に多彩な構成となっています。彫師は文政元年(1818)に再建された日光五重塔の彫物方棟梁の後藤周二正秀で、彫師集団磯辺氏の一族であり、下野彫師の第一人者です。

(*13)鹿沼の秋祭りと屋台
 旧鹿沼の氏神である今宮神社の祭礼には、古式ゆたかな神輿の渡御とともに「付け祭」として屋台の繰込み、引廻しがあります。鹿沼の初期の屋台は「踊り屋台」と呼ばれる簡単なつくりのもので、踊りなどの舞台として使われていました。寛政(1789~)に入ると付け祭は盛大となり、各町内は踊り、狂言を競い合いました。その頃から囃子方が屋台の中に入ったため「踊り台」が前面に据えられました。また屋台そのものも黒漆塗りとなり、彩色彫刻で飾られ、彫刻屋台の祖形ができあがりました。しかし、まだ付け祭の中心は踊りや狂言だったのですが、文政の改革(1827)で「神事祭礼仏事は質素倹約に、在郷芝居は禁止」という御触れが出され、以降その禁令は、天保の改革(1841)で強化されました。芝居が禁止されたことで、各町内の付け祭における「意気」と「力」の競いあいは屋台を飾ることに移行していきました。これに日光山社寺の華麗な彫物の影響が加わり、全国でも珍しい全面白木彫刻のみに飾られた屋台が完成したのです。


c001 並木太郎

c002 日光並木街道の物語(野口地区)

c003 杉の自然と植生

 


c004_1 「日光杉並木街道」を後世に残すために

c004_2 「日光杉並木街道」を後世に残すために

c005 杉並木散策マップ

c006 杉並木街道と参詣(瀬川地区)


c007 瀧尾神社

c008 日光杉並木 追分

c009 地震坂

c010 例幣使街道 板橋一里塚


c011 並木寄進碑

c012 仲町屋台公園・屋台展示収蔵庫

c013 屋台の各部名称

c014 鹿沼の秋まつりと屋台


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水系の話
■目的地の話
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 >>日本の滝百選
 >>スペシャル
 >>四国遍路八十八箇所

2016/04/14
 08:30 東武日光駅
 09:30 日光市野口
 10:18 滝尾神社
 10:35 追分
 12:12 板橋 福生寺
 12:50 春爛漫
 13:45 文挟駅
 14:25 並木寄進碑
 15:41 御成橋
 16:05 仲町屋台公園
 17:10 樅山駅


歩行距離:約30km