日本一巡~晴行雨読~ 利尻富士から歩いて薩摩富士へ
第6日 
足尾・神橋・霧降の滝
 2015年11月26日(木)
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(1)足尾市街から天王様前バス停
 とうとう足尾に入れる日が来る。夏の阿世潟峠から遠望し、秋の細尾峠の向こうにあったであろう街にいよいよ入る。しかし徒歩旅行と銘打っているにも関わらず、鉄道による足尾入りである。日本一巡のルートは足尾からまた日光に引き返すことになるため、一抹の不本意さは感じるものの、先を急ぐことを優先し鉄道での足尾入りとした。足尾本山の精錬所は廃墟の雰囲気がよいらしく、そのような紹介記事もネットで見かける。期待感が高まってきた。
 さて足尾から日光へは、前回の中断点だった天王様前バス停から日光市営バスに乗ることになるが便数は少ない。天王様前発8時の便は無理としても、11時30分、13時40分、16時、そして前回乗った18時20分である。昼前か、昼過ぎか、夕方か。足尾と日光の滞在時間のバランスと次回以降のルートの残り方が気になる。一方足尾へのアプローチとなる旧足尾線、わたらせ渓谷鉄道もローカル線のため、それほど便数があるわけではない。朝に東京を出発するとすれば最早での通洞駅着は9時07分。その次になると10時20分。さらに次だと11時30分である。廃墟の雰囲気がそそられるので足尾滞在が長くなる予感がする。また天王様前バス停も足尾市街に近接しているわけではない。ぐずぐずしていると16時。悪くすると18時20分の可能性すら感じる。不安が募るので、通洞駅着は第1案。9時07分とした。東京から毎度おなじみの東武線を使うのだが、いつもの会津田島・東武日光行き快速よりもさらに1時間早い準急電車に乗らざるを得ない予定となった。徒歩旅行の割には交通機関のダイヤを意識する旅程となった。
 荷物は前夜のうちに用意し、まだ暗い4時30分に起きる。いつもの乗換駅である北千住でも今日は降りずに1時間ほど乗って東武動物公園まで行く。そこで太田行きに乗り換え、館林で降りる。太田まで行ってもよいのだが、太田から乗換える桐生線が小泉線東小泉を始発駅になっているため、館林から小泉線西小泉行きに乗り換える。なかなかややこしい。宮脇さんの著書の筑豊線群のようだ。さらに館林駅では乗り換えるべき電車がよくわからない。とりあえずエレベータで上に上がる。ところが乗り換えるべき小泉線の電車は先ほど降りたホームの先の方に切欠きしたホームに2両編成で停車している。発車時間が迫っているので、あわてて走る。毎日使うものならば、なんということもなかったのだと思うが、慌てて飛び乗った。  ほっとしてくると、少し匂う。乗客のなかに異臭を放つ男性がいた。観光地に向かう快速電車とは異なる普段着の電車との思いを深くする。乗客は通勤客・通学客が半々といったところ。小泉線の沿線も住宅が疎らにどこまでも続き、市街地とも田園とも異なる景色である。終点・西小泉のふたつ手前の東小泉で下車し、赤城行きに乗り換える。こちらも2両編成であり、通勤・通学客で一杯である。とても朝食を食べる雰囲気でない。いつも最寄駅近くのコンビニで弁当を買い、それを快速電車の車中でいただくのだが、今日はずっと通勤電車で気分が出ず、ずっと持ったままとなっている。既に7時を回っていて、食欲はあるのだが、衆人環視の中でコンビニ弁当を開ける気分にはならない。太田からはさらに乗客が増える。やんちゃな感じの子も進学コースらしき子も友達との会話を楽しみながらスマホをいじっている。日本各地でありふれた通学風景なのであろう。途中駅に高校が点在しているのか、生徒たちはだんだんと降りて行く。甲子園で優勝したこともある桐生第一の生徒たちも降りて行き、ローカル線にふさわしいような落着きを見せてきたところで、7時39分、わたらせ渓谷鉄道乗換駅の相老に着く。
 雨が降ってきている。実は延期するかどうか、会社に休暇届を出してからも迷っていた。天気は午後から回復傾向の予報であった。今朝の東京は降っていなかったが、北関東は雲がかかっているのであろう。使用できない硬券の切符を窓口で売っていたので買い求めなどするうち、桐生駅始発の旧足尾線、わたらせ渓谷鉄道線の茶色いディーゼルカーが入線してきた。車体は丸みを帯び、かなり以前の阪急電車を思わせた。7時52分発、旧足尾町通洞駅まで、およそ1時間の旅となる。車内は既に通勤・通学方向とは逆になっているので、10名ほどの客である。やっと朝食が摂れる。待ちかねた思いで弁当を開く。車内の広告は疎らだが、沿線に何のゆかりもなさそうな岡山県あたりにある古河グループの企業広告があった。電車は渡良瀬川を軽快に遡っていく。2、3駅に一回、案外高い頻度で上り電車と行き違う。途中の神戸(ごうど)駅も行き違いのある駅だったが、側線にレストランが作られていた。「清流」という名だが季節営業なのか閉まっているようだった。わたらせ渓谷鉄道はところどころ本物の清流を車窓に見せながら進む。空はやや沈んだ感じでだったせいか、この清流もなにか少しよそいきな感じがしなくもなかった。
 9時07分、旧足尾町の中心、通洞駅に着く。無人駅である。駅周辺は家屋は立ち並んでいるのだが無人の街(*1)である。西部劇すら思わせる。幸い、雨は降っていない。今日は珍しく観光スポット巡りから始める。旧坑道を展示に使っている足尾銅山観光と、冬は営業停止するNPO法人が運営する足尾歴史館を訪れる予定である。10分ほど歩いて足尾銅山観光に着く。トロッコが15分おきに出発するという。少し待つ。ストーブが焚かれている。ほっとした思いで待合室にある展示を見るうち、声をかけられた。トロッコの出発は9時30分である。運転士と私だけを乗せて電気機関車に牽かれた黄色く塗られたトロッコが下り道を行く。坑口のやや手前で一時停止する。平日午前の季節外れの観光地。世間から隔絶されているような気がする。足尾銅山の坑道の総延長は東京から博多まである(*2)というが、いよいよトロッコが坑口から入るのも束の間、有楽町にすらたどり着かないうちに終点となり降ろされた。ここからは歩いて戻る演出なので、あまり長い距離を残したくないのだろうが、それにしてももったいぶった割にはあっけなかった。地下では江戸期、明治期、昭和期それぞれの人形の鉱夫が働いていた。それを順に見る。やがてうしろから人の声がしてきた。ゆっくり展示を見ているうち、次の便の客が追付いてきたのだろう。そう思いつつやがて地上に出る。ところが全く追いつかれる様子がない。展示のスピーカから流れている歓声だったのか、それとも…。それを確かめる術はもうない。
 足尾銅山観光から出ると、雨が降り出していた。足尾歴史館まではすぐである。必ずしも好天が予想されたわけではないのに、この11月26日に足尾にやってきたのは足尾歴史館の今年の営業が11月27日(金)までだったことに拠る。12月からは冬季休業に入るのだ。旧足尾線の踏切に差し掛かると、ちょうど列車が通過するところであった。足尾と言えば公害の原点。天皇に直訴した義人・田中正造という連想になりがちだが、足尾歴史館はそれだけではない。古河グループの創業者、古河市兵衛や古河家も等分に扱っている。積極的に当時の新技術を導入したことも紹介している。もちろんそれだけでなく、阿世潟峠下の松木村は鉱毒の煙が流れ込み、森が枯れ、無人村になったことにも触れている。すべてを受け入れてこそ、わが故郷。そんな心意気が感じられる館である。帰り際、館長と思われる男性から、どこへ行くのかと尋ねられた。足尾駅の方向へ行くと言うと、それならばトロ道を行くとよい、通洞駅の方への近道になると言われる。わざわざ途中まで案内してくれる。トロ道はトロッコ道のこと。ガソリンカーが通った道だという。今となっては単なる細道であるが、記憶を合成すると、「館長」には往年のガソリンカーと賑わいが見えているのだろう。  ひと気のない雨上がりの昼前、ひとり歩みを進める。キリスト教会前に共産党支部がある。それぞれにひっそりとしている。教会には由緒があるようでその旨の掲示(*3)もある。さらに進むと足尾駅に至る。ちょうど気動車が入線している。こちらに向かって発車してくるようである。ぽつりぽつりとまた雨が降り始める。気動車を見送り足尾駅に進む。通洞駅と異なり敷地に余裕があるので往年の気動車が二両保存されている。塗装はかなり剝げているので良好な保存状態とは言えないが、いまの私には無言であったが、気が向いたならなにかを問わず語りにしてくれるのかもしれない。雨のなかさらに進むと、渡良瀬橋(*4)に出る。華やかな石橋である。すぐ近くに古河の迎賓館たる掛水倶楽部が崖上に建つ。このあたりは古河の社宅(*5)が立ち並んでいたとのことだ。故に駅は足尾という代表名が冠されているのであろう。鉱夫の街・通洞とは一線が画されていたのだろうと思う。しかしここまで足尾の街を縦断してきたがどこか浮世離れしている。建て詰まってはいるのだが、ひと気に乏しい。今日は降ったりやんだりの曇天だからなおさら生気なく感じる。巌を噛む渡良瀬川(*6)のみが動きを感じる。
 さらに上流へ精錬所跡のある足尾本山を目指す。しばらく進むと、栃木県でたびたび出くわす、あの生き物がまた目の前を横切る。ニホンザルである。道路を横切った後、木に座ってこちらを見ている。セーフティリードがあると彼らは逃げ出さない。古河の工場のある間藤駅を過ぎ、さらに進む。既に列車の通らない踏切などの産業遺物を確認しながら、古河橋(*7)に至る。明治期の鉄橋で、旧弾正橋(八幡橋)によく似ている。精錬所跡の無骨な建物が見える。しかし一応は管理されている風であり、部外者が構内に立ち入るのは憚られた。今日一番の目当ては、この精錬所跡の廃墟具合であったのだが、私の側が不審者として告発されてしまいかねなかったので、急速に意欲が萎んできた。ちょうど正午のサイレンが鳴る。腹を決め、天王様前バス停13時40分発のバスを目指す。今日中に日光市街まで到達してしまうことに切り替えた。
 速歩で戻る。どちらかといえば下り勾配の道であり、駆け出すほどではないが、急ぎ足でここまでの道を巻き戻す。間藤駅のトイレで小用をたしていると、ディーゼルカーが出発した。巡り合わせかもしれないが、時刻表で見るダイヤより案外と本数があるように感じる。田元交差点からは広幅員の国道122号線を行く。大型車が行き交う。今度は逆に上り勾配を感じながら進む。時計だけを気にして無心で進む。やがて予定通り旧道を進み、欄干が崩壊しつつある旧神子内橋を渡る。こういう改良前の旧道も、歴史的な古道とは違った趣きがある。戦後経済成長時に整備された旧道は、当時の新技術の粋を集めたのであろうが、やがて後進に道を譲り往時の思い出を生きるよすがとして、そこにあるように思える。私の日本一巡の旅は、徒歩であるが故に、そうした旧道巡りが楽しみのひとつになるのだろうと思う。
 途中1軒だけあったコンビニで今日2回目のコンビニ弁当とビールを買う。廃校となった旧神子内小学校の敷地脇をとおり、およそ1ヶ月前に訪れた天王様前バス停に着く。13時25分。バスまで少し間があるタイミングで、上出来だと言える。前回はとっぷりと暮れていたが、今日は曇天とはいえ昼間なので印象が異なる。ただバス停の形には見覚えがあり、ちょっとした戸惑いを覚える。バスを待つのも惜しく、立ちながらコンビニ弁当を食べる。通行量はそれなりにあるが、厚かましくも食事タイムとする。定刻から数分遅れてバスが来た。今日は10人ほど乗車している。これならバス便を維持する張り合いもある。これまでの徒歩と変わらぬ風景をバスは進む。日足トンネルを抜け下りに入り、見覚えのある細尾で降りる。運転手がここで降りるのか、とややびっくりしていたようだ。無理もない気はする。

(2)細尾入口から神橋
 曇天の中、また歩き始める。時間は14時。まだ2時間程度は歩けるだろう。尾瀬から奥日光、いろは坂を下ってきた本線経路に再び合流する。細尾入口バス停から復帰する。東武バスですでに馴染んだ道だ。しかしまたしばらくは来ることがなくなるだろう。清滝観音を街道から遠望し、未だ鮮やかな紅葉を残している木々もある。午前中の足尾に比べると、人の気配があり車両通行量も多い。旧田母沢御用邸や幸福の科学日光精舎など唯一性のあるポイントも並ぶ。堅く守られた日光奉行所跡付近から日光市街となり、大谷川越しに金谷ホテルを望む。さらに下流には神橋が雨中に佇んでいる。陰影のある赤い橋もそれで一幅の絵となっている。雨中なので思ったほど数は少ないが、外国人観光客が幾組も撮影をしている。彼ら彼女らがいなければ、一層深山幽谷的印象を抱いたかもしれないが、特に不愉快というわけではない。それも自然な感じを受けた。

(3)神橋から霧降の滝
 すでに15時を過ぎているが、急げば霧降の滝までいけるかもしれない。東照宮境内には立ち入らず、直接霧降の滝を目指す。直接二社一寺から霧降方面に抜ける道があり、それを進む。家並みは急に途切れ、山越え路となる。鹿が出没する旨の標識もある。やがてスケートリンク(日光霧降アイスアリーナ)もある霧降別荘地に出る。寺社観光地とは異なるリゾートとしての日光になるが、シーズンオフの平日の、しかも曇天の夕方ではまったく人影がないのもやむを得ない。登り勾配を進んでいく。時折、修学旅行向けの宿泊施設をとおりすぎていく。足立区、江東区の施設があるようであった。区内小中学校が順に訪れることになっているのであろうが、季節性があるはずで年間通じては稼動させられないだろう。その一方で現に廃屋のように思える施設も点在する。
 冬木立の路を登っていき16時30分ごろ霧降の滝近くまで来た。既に夕方近くにあり7割方の明るさであるが、午前中足尾でうろうろしていたことを思えば、よく足を伸ばしたといえるだろう。車道から300mほど整備された遊歩道を昇降し、展望台に至る。展望台はすぐ近くに滝が手に届くというわけではないが水量のある霧降の滝の全景が見える。数人がまだ暮れかかっている滝を堪能していた。一組のカップルの他、妙齢の女性がひとりでいて少し事情を詮索したい衝動に駆られる。滝を堪能している振りをして時間を潰して彼女を先に帰し、2割程度の明るさまで暗くなった雨で滑る散歩道を戻った。洋館のレストランが営業しているようで電燈色の光が漆黒の闇に浮かび上がっている。宮沢賢治の「注文の多い料理店」の山猫軒を思わせた。
 あとはもう東武日光駅まで下る以外にない。三々五々に車が行き交う暗い夜道を行く。曇り空で見た廃屋や宿泊施設を、今度は闇の気配のなかで感じる。と、そのとき急に転倒した。路肩に足を取られたようだ。やっとのことで手をついたが、下り坂だったこともあり反応が遅れ、顔面も打った。一瞬のことで状況が掌握できない。後方から車の気配を感じたので無意識に路肩に寄り、バランスを崩したのであろう。後方の車からも転倒の様子が見えたのだろう。止まってくれた。大丈夫だと応じ、暗闇のなかまたひとりになったが、右足を挫いているようだ。痛むが仕方ない。歩けないわけではない。
 林間の急坂を下り、やがて住宅が立ち並ぶ街区まで降りてこられた。大谷川を越える霧降大橋の手前に一際イルミネーションが煌々とした一角がある。国道脇の民家で人目を惹かないわけにはいかない。今日はまだ11月。クリスマスまでの1ヶ月間は周辺の住民と国道を通過するドライバーたちに話題を提供するのであろう。庭、1階、2階、ベランダ、壁、塀…、飾りに飾っている。ただ山あいの町の冬の日の夜、そこだけが明るく、周りには闇と静寂があった。霧降大橋を越え、勝手知ったる東武日光駅前に至る。中途半端な季節で訪れた観光駅は閑散としていた。


(*1)足尾の中心地 松原 往時の賑わい
 江戸期の松原は新梨子(しんなし)村と称され5~6戸が農業を営んでいたが、銅山の発見により幕府直轄の銅山陣屋が置かれ、役人・銅山師(やまし)・人夫・商人が来住してきた。明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山を経営するに至り飛躍的な発展を遂げる中で、同18年には通洞坑が開坑されたことにより松原の様相も一変する。同40年に街並みを形成する道路も整備され、大正元年(1912)には足尾鉄道通洞駅が開業されるなど名実共に足尾の中心地となった。同9年には鉱業所が通洞に移されて更に商店街は活況を呈した。しかし、松原は火災が度々発生し入れ替りが激しく明治の旧家はほとんど姿を消した。また、町屋のみで形成された松原であったが足尾銅山の変連に伴い商店も変貌していった。人口も昭和30年(1955)には、まだ248戸1126人を有していたが、現在(平成12年10月)は156戸320人となった。今は昔、往時は昼夜の別なく大勢の人波で街並は大いに賑わったであろう。 日光市

(*2)足尾銅山
坑道ってどれくらいの長さかな?
 昭和の閉山までの間に、銅山内部には鉱石の採集のため縦、横に数多くの坑道が掘られませした。通洞坑口からは、電車坑道のレールが奥へ6.5km続き、途中から様々な所へ坑道が続いていきます。坑道全体は上下に延びながら何層にもつながっていて、上に20番(約600m)、下に16番(約540m)もの高低差を持っています。また、全部の坑道をつなぎ合わせると「総延長は約1,200km」にもなり、これは東京から九州博多までの距離に相当します。

   江戸時代
 足尾銅山は慶長15年(1610年)足尾村の二人の農民によって発見されました。後に江戸幕府直営の銅山として代官所が設けられ、代官の監督の下、銅山師(やまし)が多くの労働者を使って採掘と精錬を行いました。坑内の作業にはそれぞれ役割分担があり、槌とタガネで鉱石を掘る「掘り大工」、鉱石を選り分けて運び出す「手子(てこ)」や「負夫(おいふ)」、坑道の支柱をする「留大工」、坑内に溜まる水をくみだす「樋引(といびき)」などおよそ530名の労働者が働いていました。しかし、作業は全て手作業によるもので、大変厳しいものでした。

   明治・大正時代
 明治10年(1977年)「古河市兵衛」により民営化され、最新の技術や設備によって鉱山施設の電化、近代化がすすめられ急速な発展を遂げました。明治20年代には国内全産銅の40%以上を産出する日本一の銅山になり、日本の近代化に大きく貢献しました。しかし一方では「公害問題」を起こし周辺地域に多大な被害を及ぼしてしまいました。大正時代になると「足尾式鏨岩機(さくがんき)」が考案され、手掘りから機械掘りへと変わり、作業効率が上がりました。また、「桐生~足尾間の鉄道」も開通し、馬車に代わる輸送機関として大きな役割を果たしました。

   昭和時代
 昭和時代になると機械化、合理化がさらに進み、また労働環境もすこしづつ改善されていきました。新しく坑道を切り開いたり、鉱石を採掘する作業には「新式鏨岩機」が採用されました。鏨岩機であけた穴に「発破」をかけて岩盤を砕きながら進み、砕かれた鉱石は鉱車で選鉱場へと運ばれました。昭和23年には「重液選鉱法」、31年にはフィンランドで開発された「自溶精錬法」を日本で最初に精錬所に取り入れるなど、技術の分野で大きく貢献しました。

(*3)足尾キリスト教会
 18世紀末の英国の鉱山王グリン・ビビアンが失明を期に入信し、後に鉱山労働者に対する宣教使命が与えられ伝道団を設立した。彼は「自己の遺産を以て全世界の一国に一教会を」との意志を伝え永眠した。日本では国内屈指の足尾銅山が選ばれ、現在の教会堂が明治41年(1908)に建立された。 日光市

(*4)渡良瀬橋
 足尾銅山は、江戸時代(1610年)に発見され、明治10年(1887年)に古河市兵衛が経営するに至り、我が国最大の銅山として昭和48年(1973年)まで営まれた。当地は深い崖を刻んだ川と急峻な地形であったため、数多くの橋が架設され「橋の展示場」と称されるほど様々な橋を有し、質量、技工ともに先進地であった。この渡良瀬橋は明治後期に建造された鉄製のアーチ橋であった。当時は鉄橋といえど、主構造以外の横桁、床板、高欄などは木製であったため、昭和2年(1927年)に木製部分を鉄製に改修し、さらに昭和10年(1935年)に現在のコンクリートアーチ橋(橋長52.5m、幅5.4m)に大改修した。2度にわたる大改修のため、最初の橋の架設年次や設計者、詳細図面が不明となった。大改修の工法は鉄製本体をそのまま鉄骨としてトラスの垂直材を1本おきに取り除き、鉄骨コンクリートを巻き込んだもので、橋全体の均整、出来映えはすばらしい。こうした橋の改修方法は極めて稀な工法であり、往時の足尾銅山の技術の優秀であったことが偲ばれる。現在は歩行者専用橋として利用され、隣接した上流側に道路橋「新渡良瀬橋」を平成9年(1997年)に架設された。

  (*5)足尾銅山社宅 渡良瀬 往時のようす
 日光開山の祖、勝道上人が修行の途次にこの地を命名したと伝えられ、以後延暦7年(788)に伝教大師の創建とする宝増寺(明治元年赤沢に移る)が建ち開かれたとされている。江戸時代は農地で寺が移った頃は農家が2~3戸であった。明治10年(1877)に足尾銅山を古河市兵衛が経営するに至り、急激な発展を遂げる中で同24年に渡良瀬~神子内に馬車鉄道を敷き、物資輸送の基地として社宅5~6軒馬丁飯場等が建てられた。同40年に発電所も設け、更に大正元年(1912)は足尾鉄道が足尾駅まで開通し輸送の拡大とともに社宅は増大した。昭和30年(1955)に社宅180世帯830人、一般住宅10世帯49人を数えたが、同48年の閉山直後は全体で143世帯455人となり、社宅の一角に教職員住宅2階建8戸(同63年)、町営住宅4階建て16戸(平成元年)が建つ等社宅群は減少し、平成11年(1999)は61世帯136人となった。渡良瀬は大きく変わりつつあるが、「花の渡良瀬」と謳われた名所の復活が待たれる。

(*6)渡良瀬川発祥の地
 足尾銅山の深い歴史をともに歩んだ渡良瀬川、その名の由来は1200年の昔、日光を開山した勝道上人が修験の途次、この地に分け入り対岸に渡ろうとしたが、谷が深く流れが急なので、困っていたところ、ようやくこの辺りで浅瀬を見つけ無事に渡ることができたので、対岸の地を「渡良瀬」とし、川の名を「渡良瀬川」と命名したと伝えられている。以来、ここから約150m上流の、松木川と神子内川が合流する地点から下流を、渡良瀬川と称してきたが、昭和40年(1965)に渡良瀬川の起点は、松木川上流に変更された。 日光市

  (*7)古河橋
 古河橋は明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で足尾銅山の誇れる産業遺産である。足尾銅山では明治18年(1885)古河橋の前身である木造の「直利橋」を架けたが、同20年4月の大火で消失したので鉄の橋を架設することにした。「古河橋」はドイツ・ハートコート社製で、同23年6月架設工事に着手した。橋台は煉瓦積工法で、次いで鋼構造部材の組立のための足場が完了したが、8月22日に松木川が大洪水となり足場は一部を残し流出したので再構築し、10月26日に鋼材の組立に着手し、12月28日に竣功させるという突貫工事であった。古河橋の形式は、鋼鉄製、木床版、半径間ボストリング・ワーレントラス式 ピン結合 橋長48.5m 幅員4.8m(有効3.6m)で、上弦材にH型鋼を使用した珍しい形式である。翌年には橋上に日本初の実用化した電気鉄道(単線)を敷設した。後年老朽化したので床版の改修や主構材の補強などで維持してきたが、平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので古河橋は歩道橋として残された。 日光市教育委員会


c001 足尾の中心地 松原 往時の賑わい

c002_1 坑道ってどれくらいの長さかな?

c002_2 坑道ってどれくらいの長さかな?

 


c003 江戸時代の足尾銅山

c004 明治・大正時代の足尾銅山

c005 昭和時代の足尾銅山

 


c006_1 足尾銅山のあゆみ

c006_2 足尾銅山のあゆみ

c006_3 足尾銅山のあゆみ

c006_4 足尾銅山のあゆみ


c007 寛永通宝鋳銭座

c008_1 日本の鉱山

c008_2 日本の鉱山

 


c009_1 古河市兵衛をめぐる人々

c009_2 古河市兵衛をめぐる人々

c010 古河家系譜

c011 足尾キリスト教会


c012 足尾銅山 渡良瀬 往時の様子

c013 渡良瀬橋

c014 渡良瀬川発祥の地

c015 古河橋


■晴行雨読の話
■日本一巡の話
水系の話
■目的地の話
 >>伝統的建造物群保存地区
 >>日本百名橋
 >>日本の滝百選
 >>スペシャル
 >>四国遍路八十八箇所

2015/11/26
 09:07 通洞駅
 09:20 足尾銅山観光
 10:20 足尾歴史館
 11:08 足尾駅
 12:00 古河橋
 12:55 旧神子内橋
 13:25 天王様前バス停着
 13:40 天王様前バス停発
 13:50 細尾
 15:00 花石町
 15:30 神橋
 16:45 霧降の滝
 18:15 東武日光駅


歩行距離:
5km(通洞駅-田元-古河橋・推定)
6km(古河橋-田元-天王様前バス停・推定)
10km(細尾入口バス停-神橋-霧降別荘地―霧降滝・推定)
4km(霧降滝―霧降別荘地-東武日光駅・推定)