(*1)足尾の中心地 松原 往時の賑わい
江戸期の松原は新梨子(しんなし)村と称され5~6戸が農業を営んでいたが、銅山の発見により幕府直轄の銅山陣屋が置かれ、役人・銅山師(やまし)・人夫・商人が来住してきた。明治10年(1877)に古河市兵衛が足尾銅山を経営するに至り飛躍的な発展を遂げる中で、同18年には通洞坑が開坑されたことにより松原の様相も一変する。同40年に街並みを形成する道路も整備され、大正元年(1912)には足尾鉄道通洞駅が開業されるなど名実共に足尾の中心地となった。同9年には鉱業所が通洞に移されて更に商店街は活況を呈した。しかし、松原は火災が度々発生し入れ替りが激しく明治の旧家はほとんど姿を消した。また、町屋のみで形成された松原であったが足尾銅山の変連に伴い商店も変貌していった。人口も昭和30年(1955)には、まだ248戸1126人を有していたが、現在(平成12年10月)は156戸320人となった。今は昔、往時は昼夜の別なく大勢の人波で街並は大いに賑わったであろう。 日光市
(*2)足尾銅山
坑道ってどれくらいの長さかな?
昭和の閉山までの間に、銅山内部には鉱石の採集のため縦、横に数多くの坑道が掘られませした。通洞坑口からは、電車坑道のレールが奥へ6.5km続き、途中から様々な所へ坑道が続いていきます。坑道全体は上下に延びながら何層にもつながっていて、上に20番(約600m)、下に16番(約540m)もの高低差を持っています。また、全部の坑道をつなぎ合わせると「総延長は約1,200km」にもなり、これは東京から九州博多までの距離に相当します。
江戸時代
足尾銅山は慶長15年(1610年)足尾村の二人の農民によって発見されました。後に江戸幕府直営の銅山として代官所が設けられ、代官の監督の下、銅山師(やまし)が多くの労働者を使って採掘と精錬を行いました。坑内の作業にはそれぞれ役割分担があり、槌とタガネで鉱石を掘る「掘り大工」、鉱石を選り分けて運び出す「手子(てこ)」や「負夫(おいふ)」、坑道の支柱をする「留大工」、坑内に溜まる水をくみだす「樋引(といびき)」などおよそ530名の労働者が働いていました。しかし、作業は全て手作業によるもので、大変厳しいものでした。
明治・大正時代
明治10年(1977年)「古河市兵衛」により民営化され、最新の技術や設備によって鉱山施設の電化、近代化がすすめられ急速な発展を遂げました。明治20年代には国内全産銅の40%以上を産出する日本一の銅山になり、日本の近代化に大きく貢献しました。しかし一方では「公害問題」を起こし周辺地域に多大な被害を及ぼしてしまいました。大正時代になると「足尾式鏨岩機(さくがんき)」が考案され、手掘りから機械掘りへと変わり、作業効率が上がりました。また、「桐生~足尾間の鉄道」も開通し、馬車に代わる輸送機関として大きな役割を果たしました。
昭和時代
昭和時代になると機械化、合理化がさらに進み、また労働環境もすこしづつ改善されていきました。新しく坑道を切り開いたり、鉱石を採掘する作業には「新式鏨岩機」が採用されました。鏨岩機であけた穴に「発破」をかけて岩盤を砕きながら進み、砕かれた鉱石は鉱車で選鉱場へと運ばれました。昭和23年には「重液選鉱法」、31年にはフィンランドで開発された「自溶精錬法」を日本で最初に精錬所に取り入れるなど、技術の分野で大きく貢献しました。
(*3)足尾キリスト教会
18世紀末の英国の鉱山王グリン・ビビアンが失明を期に入信し、後に鉱山労働者に対する宣教使命が与えられ伝道団を設立した。彼は「自己の遺産を以て全世界の一国に一教会を」との意志を伝え永眠した。日本では国内屈指の足尾銅山が選ばれ、現在の教会堂が明治41年(1908)に建立された。 日光市
(*4)渡良瀬橋
足尾銅山は、江戸時代(1610年)に発見され、明治10年(1887年)に古河市兵衛が経営するに至り、我が国最大の銅山として昭和48年(1973年)まで営まれた。当地は深い崖を刻んだ川と急峻な地形であったため、数多くの橋が架設され「橋の展示場」と称されるほど様々な橋を有し、質量、技工ともに先進地であった。この渡良瀬橋は明治後期に建造された鉄製のアーチ橋であった。当時は鉄橋といえど、主構造以外の横桁、床板、高欄などは木製であったため、昭和2年(1927年)に木製部分を鉄製に改修し、さらに昭和10年(1935年)に現在のコンクリートアーチ橋(橋長52.5m、幅5.4m)に大改修した。2度にわたる大改修のため、最初の橋の架設年次や設計者、詳細図面が不明となった。大改修の工法は鉄製本体をそのまま鉄骨としてトラスの垂直材を1本おきに取り除き、鉄骨コンクリートを巻き込んだもので、橋全体の均整、出来映えはすばらしい。こうした橋の改修方法は極めて稀な工法であり、往時の足尾銅山の技術の優秀であったことが偲ばれる。現在は歩行者専用橋として利用され、隣接した上流側に道路橋「新渡良瀬橋」を平成9年(1997年)に架設された。
(*5)足尾銅山社宅 渡良瀬 往時のようす
日光開山の祖、勝道上人が修行の途次にこの地を命名したと伝えられ、以後延暦7年(788)に伝教大師の創建とする宝増寺(明治元年赤沢に移る)が建ち開かれたとされている。江戸時代は農地で寺が移った頃は農家が2~3戸であった。明治10年(1877)に足尾銅山を古河市兵衛が経営するに至り、急激な発展を遂げる中で同24年に渡良瀬~神子内に馬車鉄道を敷き、物資輸送の基地として社宅5~6軒馬丁飯場等が建てられた。同40年に発電所も設け、更に大正元年(1912)は足尾鉄道が足尾駅まで開通し輸送の拡大とともに社宅は増大した。昭和30年(1955)に社宅180世帯830人、一般住宅10世帯49人を数えたが、同48年の閉山直後は全体で143世帯455人となり、社宅の一角に教職員住宅2階建8戸(同63年)、町営住宅4階建て16戸(平成元年)が建つ等社宅群は減少し、平成11年(1999)は61世帯136人となった。渡良瀬は大きく変わりつつあるが、「花の渡良瀬」と謳われた名所の復活が待たれる。
(*6)渡良瀬川発祥の地
足尾銅山の深い歴史をともに歩んだ渡良瀬川、その名の由来は1200年の昔、日光を開山した勝道上人が修験の途次、この地に分け入り対岸に渡ろうとしたが、谷が深く流れが急なので、困っていたところ、ようやくこの辺りで浅瀬を見つけ無事に渡ることができたので、対岸の地を「渡良瀬」とし、川の名を「渡良瀬川」と命名したと伝えられている。以来、ここから約150m上流の、松木川と神子内川が合流する地点から下流を、渡良瀬川と称してきたが、昭和40年(1965)に渡良瀬川の起点は、松木川上流に変更された。 日光市
(*7)古河橋
古河橋は明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で足尾銅山の誇れる産業遺産である。足尾銅山では明治18年(1885)古河橋の前身である木造の「直利橋」を架けたが、同20年4月の大火で消失したので鉄の橋を架設することにした。「古河橋」はドイツ・ハートコート社製で、同23年6月架設工事に着手した。橋台は煉瓦積工法で、次いで鋼構造部材の組立のための足場が完了したが、8月22日に松木川が大洪水となり足場は一部を残し流出したので再構築し、10月26日に鋼材の組立に着手し、12月28日に竣功させるという突貫工事であった。古河橋の形式は、鋼鉄製、木床版、半径間ボストリング・ワーレントラス式 ピン結合 橋長48.5m 幅員4.8m(有効3.6m)で、上弦材にH型鋼を使用した珍しい形式である。翌年には橋上に日本初の実用化した電気鉄道(単線)を敷設した。後年老朽化したので床版の改修や主構材の補強などで維持してきたが、平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので古河橋は歩道橋として残された。 日光市教育委員会