日本一巡~晴行雨読~ 利尻富士から歩いて薩摩富士へ
第14日
 黒羽 大雄寺・雲厳寺
 2016年08月26日(金)
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(1)黒羽
 俳聖・芭蕉が野州黒羽に至ったのは1689年(元禄2年)4月4日(新暦5月22日)であるという。ここで黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝(俳号桃雪)と再会を果たした。さらに翌5日には雲巌寺に脚を延ばし、禅の師匠であった住職・仏頂和尚を訪ね、「木啄も 庵はやぶらず 夏木立」という句を詠んだということである。

 さて私の旅である。1か月前、烏山から那珂川に沿って黒羽に至ったが、今日は久慈川への分水嶺を越え栃木県を卒業するつもりである。前回も乗った大田原市営バスは一日4往復。高校生たちの通学便である始発に乗ることは諦めており、まずは10時30分ごろの便に間にあうよう東京駅から東北新幹線に乗る計画である。前回は半蔵門線大手町から東京駅まで歩いたので、今回は半蔵門線三越前駅から歩いてみる。日本橋に近い出口でなく、東京駅方面の常盤橋に近い出口を使う。明治の華麗な石橋である常盤橋は百名橋のひとつであり、旅行の目的地のひとつであることに敬意を表して撮影する。周知のとおり上空を首都高速の高架橋が覆っているために暗く、司馬遼太郎史観のような明るい明治を表していないが、やむなしとして東京駅日本橋口から東北新幹線ホームに歩いていく。
 前回の新幹線は宇都宮で下車したが、今回はもう一駅進んで那須塩原まで行く。従って各駅停車タイプの新幹線を選ぶほかなく、30分ほど待つことになる。金沢行きのかがやき号の入線を見たり、ひっきりなしに発着する東海道新幹線を遠目に眺めたりして過ごす。そして車両運用の都合だろうが、ふだんは速達タイプに使われるE5系が各駅停車のなすの号にも関わらず入線してきた。初めて乗る。最近は本業で出張する機会が乏しくなり、物珍しい。ふつうの座席なのだが、シート間隔が少し広い気がする。疎らな客を乗せて発車。神田付近の線路の錯綜や、上野地下駅、埼京線との並走などあるも、概して平板な1時間余を過ごし那須塩原駅下車。空腹をみたすため前回慌ただしく買い物した改札脇のコンビニを通過しバス停に降りる。今日の旅程を決めた大田原市営バスが待っていた。
 バス内は数人の女性客がいる。特に話し声などない。前回は夕方の便だったせいか黒羽市街から那須塩原駅まで直行したが、この昼間の便は黒羽刑務所を経由する。よく晴れた夏空の道をバスは行くが、バスの中に動きはない。果たして同行の女性客たちは黒羽刑務所で下車した。勝手知ったるようで、面会受付に直行したようだ。それぞれに思いはあるのだろうが、それを推し量る術はない。ひとりになったバスのなかで少しの間、思いを馳せる。道はやがて黒羽市街に入り、田町ロータリーで下車する。11時。歩き始める。
 今日の行程は、まずは黒羽城を目指す。旧黒羽町役場の脇から登りにかかる。黒羽城は那珂川とその支流・松葉川が落合う川筋を濠に活用した山城という位置にある。従って城下から登りにかかるのは至極当然である。登りきると、そこには黒羽小学校が静かに控えている。今日は8月なのでまだ夏休みのためか子どもの気配はないようだ。風格ある武家屋敷の門が出迎えてくれる。案内板によれば黒羽藩重役宅の門を移築したものであるという。山の上だというのに、清らかな水路があり、そこには大きな鯉が泳いでいる。小学校の正面玄関前には立派な松が植えられており、地域の拠り所として大切にされてきたことが分かる。城のほうにまっすぐ進むと、やがて左手に石段が見えてきた。黒羽藩主・大関家菩提寺、大雄寺参道が木立のなかまっすぐに伸びている。誘われるがごとく登っていくことにする。参道脇の石仏にすぐに気づく。山門の手前にも仁王がごとく一対で控えている。しかしどこか柔和である。素朴である。仁王の近くにはユーモラスな石仏が集められており、一見の価値がある。ラカンの丘だという。十六羅漢が豊かな表情を以って迎えてくれる。少しの間、そこで過ごす。
 やがて山門をくぐり、寺内に入る。よく手入れされたお堂と庭が、夏の日を浴びている。ここもまた好ましい。それをひとりで味わえる。贅沢な心持になる。穏やかな表情の仏たちに見送られつつ、大雄寺を去る。木立の山中から夏の日差しが降りそそぐ路上に戻る。相変わらず人影はない。しばらくいくと、おびただしい看板の雑貨屋がある。専売時代の塩、キンチョー、オロナインH軟膏、立山アルミ、コカ・コーラなどなどが山小屋風の家に貼りついている。なにごとかと思うが、先に進む。黒羽城三の丸跡には、観光施設である「芭蕉の館」があり、その前に芭蕉と曾良のモニュメントがある。馬に揺られて黒羽入りしたことから、芭蕉は馬に乗り、曾良はそれに徒歩で従うものである。等身大のようで、これはこれで往時を偲ばせる。本丸への道は空堀上に橋が架けられており、そこを抜けると大空間が待っていた。茂木城址も空地の本丸跡だったが、こちらは一角に能舞台があり、夏の白昼の日差しをいっぱいに浴びてはいるが清々しさすら感じる。藩主大関氏は明治まで改易されず、安泰の家柄だったことが影響しているのかもしれぬ。
 芭蕉の行程に倣ったわけではないが、黒羽城から雲厳寺を目指す。しかし城からの手ごろな橋がなく北か南か迂回しなければならない。朝通った黒羽小学校方向になる南に迂回し、松葉川を下高橋で渡る。しばらくは黒羽の市街地が続くが、どの家にも「立春大吉」「鎮防火燭」のお札が貼られている。禅宗のお寺に縁があるとのである。そういえば大雄寺は曹洞宗なので、その檀家なのであろう。益々以って安泰の地である。しばらくいくと市街地は絶え、夏の田園風景となる。黒羽高校入口を通り過ぎ、田舎の風情となる。国道であるのでクルマは行き交っているが、田舎道であることに変わりはない。いろいろと安泰だった黒羽市街に適当な店はなく、既に十分にお昼時であるのだが、この田舎道にもまったく店がない。かなり進み、道路わきの木陰で小休止する。松葉川のさらに支流、野上川に架かる塚木橋だという。気を取り直してさらに進むと道路わきに石仏が見えてきた。近づくと少し様子が違う。女性のようであり、かつ十字架のようなものを持っているように見える。ただ十字はスイス国旗のそれのようで、むしろ赤十字を思わせる。ここに病院があったことのモニュメントとして受け止めるほうが腑に落ちてくる。雑草の生い茂る空き地に屹立する石像はここになんらかの生活があったことを語りかけている。しかし受け手である私は、はっきりとした像を結ぶことができずにいる。
 さらに行くと、やがて両側の山が迫ってきて道端の耕地が減ってくる。道路わきの朽ちかけた小屋に和牛がつながれている。かとおもうと、ぽつんと一軒の瀟洒な新築の住宅がある。竿先にトンボが止まっているが、既に体の色は赤く、夏の終わりを予感させている。唐松峠が迫ってきたようだ。海抜343m。道としてはちょっとした高まりという程度。ただ変哲のない山道で、スピードに対する警戒感がなくなるのか、下りカーブに『俺が危い』という意表を突く立て看板が現れた。武骨な手書き文字がさらに迫力を生んでいる。確かに危ないのは「俺」自身だ。
 下り坂を降り、眼下に広々とした水田が見えてきた。立派に圃場整備されている。その田んぼに看板には『みんなに守っぺ須佐木の田んぼ・自然・うんまい空気』と書いてある。山間の小宇宙に降り立った。ところですでに2時を過ぎているが、まだ昼食をしていない。黒羽市街から一軒も店を見つけられず、自動販売機でさえ疎らな道を歩いてきた。須佐木に入り食料品店があり、弁当を買う。雲厳寺へ向かう整備された県道から脇に分岐する旧道に腰を落ち着け、昼食とする。木立の中の小休止である。旧道の通行量は少ないようで路傍は苔むしている。自然に還る過程をゆっくりと歩んでいるような空間である。やがて県道に戻るが、歩道上は苔むしたままである。旧道は時折自動車が通るのか轍があったが、歩道上はそれもなく苔に滑らないように注意して歩く。あまり通行量のない車道を行くこともできるのだが、あえて歩道上を注意しながら歩くことも楽しい。芭蕉翁の道行きもかくやと思わせる。雲厳寺も既にほど近くなっている。
 眼下の岩を噛む渓流に気づき休んでいると、寺の職員、いや寺男と言い直したほうがよさそうな、おじさんが落ち葉を掃いていることに気づく。私の弁当箱の入ったごみ袋を目聡く見つけ、受け取っていった。心遣いがありがたい。渓流沿いに進み、山門を仰ぎ見る。雲厳寺は山腹に寺域が広がっているのである。渓流を太鼓橋で越える。女坂としてう回路もあるようだが、山門までの階段を直登する。30段ほどある。山門をくぐると清浄な空間が広がっていた。          


(注釈文未了)
c001 俳聖松尾芭蕉と黒羽
c002 侍門
c003 ラカンの丘
c004 曹洞宗黒羽山久遠院大雄寺の沿革
c005_1 黒羽藩大関氏御本城御住居全図
c005_2 黒羽藩大関氏御本城御住居全図
c006 黒羽城の由来
c007 黒羽城址について
c008 禅宗東山雲巌寺由緒
c009 雲巌寺の松尾芭蕉
c010 雲巌寺・須賀川小学習林


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2016/08/26
 11:00 黒羽田町ロータリー
 12:00 黒羽城址
 15:00 雲厳寺
 18:20 上金沢バス停


歩行距離:約25km