日本一巡~晴行雨読~ 利尻富士から歩いて薩摩富士へ
第5日
 明智平・いろは坂・細尾峠
 2015年10月19日(月)
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(1)明智平からいろは坂
 8月のトライでは、難路による時間切れ懸念により阿世潟峠越えルートを引き返した。もう一度同じルートを行くか、歩行しやすいルートに変えるか選ばねばならない。山間部なので選択の余地は少ない。足尾の次の目的地は日光市街の神橋なので、現実的に考えられる代替策は「いろは坂」を下り、日足トンネルを往復したのち日光市街に入るルートであろう。もともとは足尾の往復で同じルートとなるため、華厳の滝から阿世潟峠越えを考えたのであって、阿世潟峠を使わないなら日足トンネル往復になるだけの話である。日足トンネル開通前の細尾峠越えの旧道も残されているようなので、峠付近だけルートを変える選択肢もないわけではなかったが、峠前後のアプローチも長く、またそのアプローチも楽しめそうな道ではない。足尾までたどり着いたら日光へは元の道を戻るのではなく「いろは坂」下の細尾まで移動のうえ、細尾から再開することにした。私のための旅行なのだからルールは私が決める。この場合は往復で同じ道をたどることに意味を見いだせず、むしろ早く未知の土地を歩いてみるべきだろう。というわけで華厳の滝から足尾へは阿世潟峠越えのリベンジをせず、いろは坂を下ることとに決めた。
 せっかく、いろは坂を下るのならベストシーズンにあわせて歩きたい。いうまでもなくそれは秋。紅葉前線が奥日光からまさに降りようとする季節に実施したい。どうやら10月中旬から下旬というのが通り相場らしい。10月19日の月曜日をターゲットとした。いろは坂のハイシーズンの休日は渋滞が付き物となっており、通常1時間程度の行程が5時間程度かかるらしい。歩くのだから渋滞は関係ないようだが、渋滞の車列脇を、殺気立った好奇の目に晒されながら進むのは愉快ではないだろう。自分のペースで歩むには、平日の歩行がよいだろう。その日のうちの足尾着を目指しているのだから、必然的にいろは坂くだりは午前中となるだろう。気持ちは急くがいろは坂くだりの前に明智平に立ってみたい。これまで何回か東武バスに乗ってきたが、幾度もその光景を洗脳されている。奥日光を去るにあたり明智平は押さえておきたい。欲張りなこととなった。またも早朝発の快速会津田島・東武日光行きで始めることとする。
 前回は予定より早い電車に乗り、始発の浅草から乗車したが今回は北千住から乗る。駅のアナウンスでは会津田島・東武日光行きでなく途中の上三依塩原温泉口・東武日光行きになっている。今年(2015年)秋、鬼怒川の中流域の堤防が決壊する豪雨により東武線はしばらく不通区間があった。今日までには解消されているようだが野岩鉄道線やその先の会津鉄道線に不具合箇所があるのかと考えたが、さらにアナウンスを聞くと、下今市なり上三依塩原温泉口なりで会津田島行きに乗り換えできるようなので、閑散期は運転区間を短縮しているのかもしれない。
 前二回は7月と8月の夏休み期間に乗ったが今回は10月の月曜日である。通勤客も多いが、途中栃木駅付近が8時前の時間となるので、朗らかないまどきの高校生たちが大挙して乗ってくる。それが新栃木、新鹿沼と停車すると彼らのラッシュアワーから外れるのか、座席は空いてくる。次は前4両と後2両を切り離す下今市である。私は鬼怒川方面に向かう3両目に乗っているので、後ろの車輌に乗り換える必要がある。下今市に着く前から前寄りの車輌から貫通路を通って後ろに行く人が三々五々と通り過ぎていく。やはり日光のハイシーズンであり後ろ2両は、ラッシュ並みとは言わないが、見通すことができないぐらいには立錐の余地がない程度に立つ客が多い。最後尾のドアから入る。
 東武日光駅に着いた2両編成電車からは、多くのハイカーが吐き出された。私もそのひとりである。バス停に長蛇の列ができる。前回の経験からJR日光駅から中禅寺温泉行きのバスが出ることを知っているので、その列には目をくれずにJR日光駅を目指す。遠目で見るバスは既にバス停に横づけされており、乗り始めているようだ。歩みを急ぎ、JR日光駅まで進む。最後のひとりとして乗り込む。前から中ほどまでは席を占められているが、最後部右側の席に無事座る。いろは坂を立ったまま揺られるのは疲れてしまうだろうが、それを回避され、まずは一安心である。次の東武日光駅から大挙して客が乗り込んでくる。列の先頭に並んでいた人は運よく座れたが、立客になった人は補助イスに座ることもできない。多くの客を収容しなければならないからだ。神橋、清滝、細尾入口、馬返と見覚えある通いなれたコースを進み、第二いろは坂を上る。通行量は多いが渋滞にはなっていない。9時20分、明智平駐車場に着く。ロープウェイに乗るにも並んでいる。少し迷ったが列に並ぶ。空は快晴。遥かに下りとなる第一いろは坂が見えている。ロープウェイは小さく1回で10名程度しか乗れないようで、それをピストン輸送している。明智平の名の由来(*1)や、明智平ロープウェイの歴史(*2)を記した掲示などを見ながら牛歩のごとく列は進み、展望台に上がったのはちょうど10時になっていた。
 明智平展望台に立つ。眼前に男体山、中禅寺湖、華厳の滝を一望に収める。いずれ劣らぬ有名観光地が配されている。よくできた絵柄だと思う。しかし待っている間に少し雲がでてようで、男体山は陽光をいっぱいに浴びているのに、華厳の滝周辺は蔭になっている。雲が動くのを待つことにする。高い視点から雄大な景色が広がっている。輸送経路にネックがあるので、展望台の広さに比べて人の数は少ない。ハイシーズンの華厳の滝見物とは思えない。振り返ると清滝にある古河の工場が遠望でき、はるかに筑波山が見えるという。位置関係が分かりかねたが、それらしい山塊が見えたような気がする。5分ほど雲の切れ目待ちをしていたが、思うように滝を照らしてくれない。あと少しの絶景を待ちたい反面、あとの行程を考え切り上げることにした。戻りのロープウェイの待ち行列はあったが、3本目の便に乗れた。
 明智平駐車場に戻ると丁度バスが来た。しかし混んでいてなかなか発車する様子がない。また既に渋滞が始まっているようで、次のバスの状況もよくわからない。10時25分、明智平駐車場から今日をスタートすることにする。すぐにトンネルとなる。車道より一段高くなった歩道風の構造物が続いているので、自動車脇を歩くが特に支障はない。やがてトンネルと抜け、中禅寺湖に下っていく。今日も華厳の滝は時間節約のため、上部からの拝観とする。2ヶ月前と同じ勢いの滝があった。ただ滝を囲む夏の真緑の森が秋の装いとなっていた。滝の展望台から後方を振り返ると、先ほどまでいた明智平展望台上に豆粒より小さなゴマ粒ぐらいの人らしき黒いものが見えた。
 華厳の滝から、日本一巡の旅の行程を再開する。華厳の滝からはすぐに家並は消え、山道に向かう風情が増す。標高1,286mの標識を右に見て、いろは坂に入る。これまでの尾瀬からの三平峠や中禅寺湖から足尾へ下る阿世潟峠は、幾重にも重なる山並みを見晴るかす感じだったが、この大谷川が刻んだ谷の向こうにはすぐ目的地がある。しかしそれだけに急崖だとも言える。山肌には茶、黄、紅が点描画のように無造作に散りばめられている。
 しばらく直線が続いたが、最初の21番「な」カーブを過ぎると、いろは坂らしく360度ターンが続くようになる。途中の道路標識によれば馬返まで5kmだという。約1時間の行程である。道に落ち葉は積もっているところもあるが、無数の黄葉、紅葉が支配している。道路脇に何台も停車されており、ハイシーズンのいろは坂を、家族やグループや、あるいはひとりで満喫している。私ももちろん満喫している。下り坂であるので特にストレスもない。あとから膝にくることは十分に予感された。
 カーブを曲がる度、だんだんと視界が下がってくる。大谷川の谷のなかを下がってくる。谷の両側がせりあがってくる。目を凝らすと明智平ロープウェイも確認できた。とはいっても眼下には坂の続きがあり、さっき脇を抜けて行った車がだいぶ下を走っている。山道ドライブの感を深くする。28番「く」、30番「ま」や34番「え」カーブ付近では、常緑の針葉樹の林に中を進むこともあるが、大抵は落葉する広葉樹のなかを進む。
 200mほど下り、海抜1,106mの標識のある中の茶屋跡に過ぎる。明治天皇の事跡を示す石碑もある。さらに下り、38番「き」カーブに差し掛かったところ、目の覚めるような一本の紅葉がそこから見えた。日を正面から一杯に浴びている。それを裏のカーブ側から見ると紅葉が燃え盛り、輝いている。命の輝きという言葉を形にしたらこうなるであろう、と思われるようなみごとなものだった。時刻表のない徒歩旅行であるので、しばらく見とれていた。自らの意思で自律した選択ができる徒歩旅行を感謝した。しばらく堪能し、そこを離れた。
 途中の鞍部となる剣が峰から、これまで通ってきた坂を振り返ると、その山肌にも錦があり、砂防工事の結果できたであろう大滝が見えた。また昭和におけるいろは坂改修工事を記念したレリーフが掲示されている(*3)。剣が峰まで来るとだいぶ下ってきたため、遥かに見晴るかす眺望は失われる。反面、山懐深くにいる趣となり引き返すようなカーブ(43番「ゑ」)では男体山の山頂を仰ぎ見ることができるようになる。44番「ひ」カーブ付近からは、山水画のような急崖に鮮やかな紅葉が点在し、渋くも華やかに思える光景が展開する。既に標高は1,000mを切っている。47番「す」、48番「ん」と続き、めくるめくいろは坂は沢筋まで下りてきて穏やかに終わる。「是より二荒山神社境内」の石碑が立っている。かつてはこの第一いろは坂しかなかったのだから、往時はここから歩みを始めたことが窺い知れる。

(2)細尾入口から天王様前バス停
 上りの第二いろは坂をあわせる馬返、豊川稲荷のある横手を過ぎ、細尾入口バス停まで下る。既に1時を過ぎている。実は12時ごろにはこの場所に立っていたかった。今日も予定より遅いチェックポイント通過となった。ここから大谷川沿いにまっすぐ行けば日光市街になるが、ここで右に折れ、細尾集落を経て足尾を目指す。足尾まで17kmの標識があった。足尾市内の終点と考えている、わたらせ渓谷鉄道・通洞駅発は18時28分を予定している。5時間あるが、やや苦しい。17kmは日足トンネルを経ていく国道での距離であるので、これから進もうとしている羊腸たる細尾峠経由では、かなりの距離になるだろう。「日光で遊んでから、ついでに来ようなんて、俺をなんだとおもってやがるんだい。2回目だよ、2回目。まだ懲りないのかい。」と、足尾銅山に呪われているかもしれない。ちょっと強引につなぎ過ぎなのかもしれない。
 大谷川を高々と跨ぎ細尾集落に入る。古河の工場があるようなので、コンビニか雑貨屋ぐらいはあるものと考えていたが、全く見えない。峠道につながる旧道を歩いているせいもあるかもしれないが、まったくない。備えも全くしていなかったので昼飯を抜くことになった。奥細尾バス停を過ぎると、人家が絶えた。さらに追い打ちをかけるように、峠道の立派な案内板が表れた。追い打ちをかけると表現したのは、その看板の表題である。そこには「長い長い峠道案内図」(*4)とあった。峠道だけで12kmあるとのことである。とはいえ進む以外にない。足尾12kmとの立札があったが、国道に合流するまでが12kmということで、足尾市街まで12kmということではない。
 杉らしき林を抜け、いろは坂以上に無数の羊腸たる道を往く。全くなかった奥鬼怒林道よりは車の通行はあるが、それは比較の問題に過ぎない。現・国道を跨ぐ箇所で、向こうからおじさんが歩いてくる。さきほど通った道路脇に車が停めてあったので、なにか様子を見てきた模様だ。どこかの会社の作業服を着ている。どこまでいくかと尋ねられたので足尾までと答えると、熊が出るぞと脅された。阿世潟峠では一定のリズムで大声を出してみたが、ここでは声を出す代わりに手拍子を打ってみた。いけどもいけども登りのカーブが続く。だんだんと拍子の間隔が開き、ついにはやめてしまった。時折鳥が鳴くことはあるが、熊はおろか小動物の気配もない。よく晴れた午後だった。ふと気がつくと、風の音のほか鼓動が聞こえる。意識して聞くとさらに明瞭に聞こえる。上り坂で心拍数があがっているのだろうが、それほど他の音のない林のなかだった。
 少し経って眼下の道にパトカーが通った。その数十秒後、隣に来て停まる。若い警官である。特に不審者ではないつもりなので、俺のことかと自らを指さす。もちろん他に人がいるはずもなく、俺のことだと言う。どこまでいくつもりかと尋ねられたので、足尾と答える。月並みだが、お気をつけて、と励まされる。熊がいる、と脅かされたと伝えると、これまでの勤務経験では皆無だとの答えであった。まあそうなのであろう。見通しがあまり聞かない林間を再び歩き始める。細尾に店がなかったので、実は飲み水もない。朝食と一緒に買ったボトル式の缶コーヒーがあるだけで、もう数回分しかない。夏場と違ってがぶ飲みしたいわけではないが心細く感じ始めてきた。すると先ほどのパトカーと、管轄の警戒範囲を見回って来たのか、すれ違う。その際敬礼をしておいた。
 3時を過ぎ、尾根の感じからしてもそろそろピークだろうと曲がってみるが、なかなか峠が表れてこない。何回か残念な気持ちでいたとき、道路脇の20mほどの草むらから「がさがさ」という音がして振り返る。黒いものが見えた。小熊という可能性がないわけではないだろうが、なにかの小動物なのであろう。そこからまた何回かカーブし、手書きの細尾峠の立札を過ぎる。少し行くと水準点があり、さらに緩やかに道を下ると塗のはげた国道122号線の標識があった。
 峠を過ぎると、木立ちに隙間があるせいか、午後の日差しが射し込むようになる。色めきたった木々はもとより空の青さを一層鮮やかに感じる。対岸に見る山肌も見えるようになり、個々の木々がそれぞれに色彩を主張している。もう足尾市街に予定時間に間に合うことにまったく頭になくなった。むしろこういう旅がしたい、したかったんだと思える。旅程があるが縛られないことになってきた。
 秋の日をいっぱいに浴びた木の影が路面に長々と横たわる。小川にかかる名もなき石橋をとりどりの色をした葉が包んでいる。唱歌の「真っ赤な秋」さながら、一様に赤い葉をつけた楓が燃えている。坂をくだりカーブを曲がる度、違う秋の唱歌を思い出す。同一樹種の単相林でないためなのであろう。

鄙には稀な華やかさ

下の句はすんなりと出てきたが、上の句でしっくりするのが出てこない。宿題として残す。一期一会となる秋の夕景をすっかり堪能した。気がつくとかなり日が傾いてきた。遠くにエンジン音がするようにもなってきた。すぐにはわからなかったが日足トンネルの足尾側出口が近いようだ。最後の大曲を終えると、この旧道は国道と神子内川を隔てて併走する。眼下の沢の岩々は、奥鬼怒の崩れて間もない角張った礫でなく、幾千万年かを経て角のまるまっている。これに手を伸ばすかのような枝ぶりもよい鮮やかな紅葉で、明智平、いろは坂から続く秋の一日を締めくくってもらった。
 4時53分。細尾から12kmもの「長い長い峠道」を歩ききった。こちらにも細尾側と同じ案内板とともに、別に細尾峠についての案内板(*5)があった。旧道はやがて国道に合流し、少し行くとバス停があった。栃木平という名であった。足尾側を下り、わたらせ渓谷に初乗りすることも食指が動くが、日没後なので次回とし、運賃の安い日光経由で帰京することにする。次の日光行きバスは6時21分発。1時間半ほども待つことになる。そこでとっぷりと暮れた夜道の国道を行けるところまで下り、そこから日光行きのバスに乗ることとした。ちょうど6時にとあるバス停までたどりつき、そこで中断した。「天王様前」という不思議な名前のバス停だった。なにかの新興宗教かとも思ったが、あとで調べると牛頭天王という正統の仏さまだということである。6時16分発のバスに乗客はなく、東武日光駅まで新たな乗客はなく、客は私ひとりのままだった。宮脇さんの時刻表20,000kmでの甘木線の章を思わせる。このバスは日光市営という名で行政サービスとして走らせているのであった。日常の状況も気になるが、お陰で無事帰京できるのだから感謝しなければならない。
 次回はわたらせ渓谷鉄道から入り通洞駅で下車する。そこから日本一巡としては次の区間である足尾⇒日光神橋として始める。通洞から旧足尾の産業遺跡を回り「天王様前」から「細尾」までバスでショートカットし、「細尾入口」からまた歩き始めることで、徒歩ルートを継続させる計画である。


(*1)明智平の名前の由来
 第2いろは坂をほぼ登りきった、標高1,274mの眺望に優れたポイントが明智平です。明智平ロープウェイ展望台からは、華厳の滝、中禅寺湖、男体山の絶景が一望できます。この日光随一と謳われる場所を”明智平”と名付けたのは天海大僧正と言われています。天海大僧正とは、織田信長に謀反を起こし(本能寺の変)、その後山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れた明智光秀であるという説があります。明智光秀は、山崎の戦いのあと比叡山に逃れ、名を天海と変え、徳川家康と会いました。家康は天海に深く惹かれ精神的・政治的な相談役として重用しました。その後日光山貫主として日光に赴いた天海は、自分の本当の名を永遠に残したいと考え、日光で一番眺めの良いこの地を「明智平」と命名したと伝えられています。

(*2)明智平ロープウェイの歴史
 日光交通株式会社
 明智平ロープウェイ(索道)は、1933(昭和8)年11月3日に日本で11番目の索道として開業しました。しかし、戦況の悪化により1943(昭和18)年9月不要不急の旨をもって営業中止となり翌1944(昭和19)年1月廃止・撤去されました。設立をした「日光登山鉄道(株)」は1945(昭和20)年2月に「日光軌道(株)」と合併後、さらに1947(昭和22)年6月には「日光軌道(株)」が「東武鉄道(株)」と合併し、明智平ロープウェイは「東武鉄道(株)」の一員となりました。戦後の混乱期が過ぎ、復活が計画されました。幸い、撤去した機械類や建物等も無事に残っていましたので、原設計に従って復活することになっていましたが、架設した「東洋空中索道製作所」は戦後解散して存在していなかったため、「安全索道(株)」によって復元工事が行われ、1950(昭和25)年10月5日に営業が再開されました。1985(昭和60)年4月「東武鉄道(株)」から譲渡を受け、現在に至っています。
 ※戦時中に廃止された索道の中で復活したのは明智平ロープウェイだけです。
 ※現在運転されているロープウェイとしては、2番目に古いロープウェイとなります。(最古の索道は「吉野山索道」(奈良県)です。)

(*3)日光有料道路完成記念レリーフ
延長 6080米
有効幅員 6米
着工 昭和28年1月10日
竣功 昭和29年9月30日
昭和30年10月1日


(*4)長い長い峠道 -銅(あかがね)の行き交う道-
 この峠は、昭和53年、日足トンネルが開通し現在の国道ができるまでは、日光市と足尾町を結ぶ大動脈でした。足尾は江戸時代に発見された足尾銅山で有名ですが、明治に入ると、群馬県から足尾へ入る足尾線(現在のわたらせ渓谷鉄道)が開通するまでは、銅山の物資搬入や採掘された堂の搬出は細尾峠を越えて行われていました。このように日光と足尾はこの峠道を通して物資や人の交流がさかんになり、特に明治39年、足尾銅山の銅を精錬する工場(日光電気精銅所)が日光市清滝に置かれてからは、細尾峠を越える交流は一層深いものとなりました。しかし時代の流れからか、昭和48年足尾銅山の閉山とともにこの峠道を通しての交流も徐々に薄れてきて、日光と足尾を結ぶ主要道路が、日足トンネルの開通に伴い、人々の生活交流はもちろん広域観光ルートとして新しく生まれ変わるに至って、この峠道はすっかり昔のにぎやかさが影をひそめました。今では初夏の新緑や秋の紅葉が楽しめる手軽なハイキングコースとして利用されています。
 ※注意※ この峠道は一般道を利用したものです。一般車輌等も通行しますので、散策には十分ご注意ください。

(*5)細尾峠
 足尾と日光の境に位置する細尾峠は、古くは日光山僧徒が峰修行の路として開いた。以後、足尾銅山の発見により往来が盛んになり、明治時代には銅山発展とともに道路を拡張し、峠に停場(とまりば)が設けられ荷物交換の行列で賑わった。更に輸送拡大のため、明治23年(1890)に日本最初の鉄索が峠の両側に架設されたが、「足尾鉄道」の開通により利用は減退した。昭和11年(1936)に自動車道として改修され足尾の大幹線となったが、昭和53年(1978)に待望の「日足トンネル」が開通し静寂な峠となった。(日光市)


c001_1 明智平の名前の由来

c001_2 明智平の名前の由来

c002_1 明智平ロープウェイの歴史

c002_2 明智平ロープウェイの歴史


c003 日光有料道路完成記念

c004_1 長い長い峠道案内図

c004_2 長い長い峠道案内図

c004_3 長い長い峠道案内図


c005 細尾峠

 

 

 


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2015/10/19
 10:00 明智平展望台
 10:25 明智平駐車場
 11:00 華厳の滝
 12:08 38番「き」カーブ
 13:13 細尾入口バス停
 15:20 細尾峠
 17:00 国道122号線合流部
 18:00 天王様前バス停


歩行距離:
3km(明智平-華厳の滝・推定)
9km(華厳の滝-細尾入口バス停・推定)
16.5km(細尾入口バス停-天王様前バス停・推定)