日本一巡~晴行雨読~ 利尻富士から歩いて薩摩富士へ
第9日
 麦の穂波と古代下野国
 2016年05月18日(水)
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(1)栃木駅から下野国庁跡まで
 例幣使街道と栃木市街を楽しんだ一日からおよそ一週間後、再び東武電車に乗って栃木県に向かった。栃木市嘉右衛門町の次の目的地は親鸞聖人ゆかりの高田専修寺である。高田専修寺は平成の大合併前の芳賀郡二宮町にある。2009年に真岡市に編入されたため、いまでは真岡市を名乗っている。二宮町の由来は二宮尊徳である。小田原藩領がこのあたりにあり、そこの代官として赴任した尊徳が疲弊していた領内を復興させたのだという。芳賀郡は栃木県の東南部を占めるので、栃木県の南西部の栃木市からは、西から東に横切ることになる。
 今回は朝一番で持病の経過観察のための通院をしたのち、午後半日を使っての旅行である。東京に接近してきたことと、日が延びてきたため企画できるようになったと言えるだろう。今回の目的地は、一応東北線の小金井駅としているが、うまく行けばさらにそれを越えて真岡鉄道の久下田駅を目指したい。半日しかないのに、随分欲張った目標を考えている。専修寺は真岡鉄道の駅から距離があり、少し扱いにくい場所にある。次回以降の日程消化の都合を考えて、できれば欲張りたいというところである。
 そのような経緯で昼の栃木駅に降り立つ。これまでで最も遅い出発時間である。前回の雨の夕暮れと異なり、夏の晴天。しかも白昼である。見覚えのある駅前だが、人通りが疎らで印象が異なる。区画整理された駅前の道を歩き始める。大通りを横切り、線形から見て古くから成立していると思われる道に乗り換える。徒歩であるのに乗り換えるというのもおかしいが、直線的な街路から自然な起伏や屈曲のある道に入ったと解してもらえればよい。巴波川に架かる(調べればわかるであろう)名も無き橋を渡る。先を急ぐはずだが横道に入り、中学校の前に出た。最近建て替えたのか、白亜の立派な建物である。校庭も100m四方確保されているようで広い。ここまで歩いてきて行政あるいは公共のユニバーサルサービスで最も目立つのは教育だと思わせる。街に仮に格差はあろうとも、学校はそれぞれに誇らしげに存在している。学校は地域の誇りをシンボルしているように感じる。
 栃木城址という掲示につられ、さらに寄り道する。栃木城主皆川広照は家康の勘気に触れ、そのため城は破却されたそうで、わずかにこんもりと土盛りしてある林である。しかし堀のような水路と向かいに白壁が夏の日を受け輝いており、城内町という町名が残されている。皆川氏がここに築城したのは天正19(1591)年とされ、秀吉による関東仕置後の平和と見越して、それまでの山あいの皆川城から出てきたようだ。前回通ってきた升塚は、その皆川氏と宇都宮氏が戦国初期の大永3(1523)年の合戦によるものである。大永年間は戦国といってもまだスターたちが登場する以前であり、将軍は12代足利義晴。中央の実力者は細川晴元、北条氏2代氏綱あたりの頃であり、ちょっとぴんと来ない時代ではある。そのような頃から威勢を張っていたが、近世になって舞台から去っていたということになるのだろう。
 東武日光線の高架の下をとおり、今日はここからが本番である。地図を見ると明らかな特長が見て取れる。直交する碁盤目上の区画された土地が広がっているのである。圃場整備だけではない、と推定した。実はJR線小金井駅までの間に下野国府跡、国分寺跡などの古代の遺構があるという。日光や例幣使街道など近世や、升塚・栃木城といった中世よりさらに時代を遡る古代を偲ぶことになる。古代の直交遺構といえば、条里制の跡だと推定し、その西の果てに立ってみた。当たり前のことだが、地図にあるとおり直線路が信号を越えて、ずっとずっと続いているようだ。空は快晴。さわやかな初夏であり、北海道にいるかのようである。時折追い越される軽自動車がちょっと北関東っぽく、北海道らしさがやや失われる。山地を卒業し、関東平野の只中に来た感はある。
 関東平野の実感は、さらにすぐに感じられた。右手はるかに筑波山とわかる山塊が見えてきたのである。遮るもののない関東平野の原風景のように思える。5月はじめなので、田植えしているところあるのだが、実は少数なのだ。ここでは麦の穂波が広がっている。世界地理で冬小麦地帯と春小麦地帯の区分があったことを思い出すが小麦ではない。掲示を見るとビール醸造のための大麦だということだ。収穫前の明るい飾り気のない藁の色が広がる様を見ていると、こころが晴れ晴れとしてくる。風にまかせてつづけざまに揺れている穂波を感じていると、いつまでも眺めていたくなる。

(2)下野国庁跡から小金井駅まで
 距離にして3キロ余り直線を進むと、やがて思川に近くなる。その前に先に触れたように下野国府跡(下野国庁跡)に向かう。そこには宮野辺神社という神社が飾らない風情で鎮座する。その脇にはこれも控えめに資料館があり、発掘の様子と復元イメージを教えてくれる。条里の遺構やかつての東山道が上野国から下野国の都賀郡・芳賀郡・那須郡・白河関を経て陸奥に向かっていることなどが素朴に解説されている。
 小休止を経て、再び歩き始める。思川がすぐ近くにあるので、橋で越えざるを得ないのだが、ここまで普通の道を通ってきたわけではないので、まともな橋にたどり着くにはだいぶ遠回りとなる。下野国分寺跡を目指すのならば北に向かい県道44号線大光寺橋で越えるのが常道だろうが、逆に南に下った。地図をよく見ると、幅員の狭い橋が架かっている。これを目指してみる。のどかな田園を行き、小宅(おやけ)という集落に入り込む。かわいらしい石橋もあり堤防上の道に至る。地図で目星をつけて、堤防を降りていくと、立ち入り禁止の看板だ。かまわず進む。氾濫原の草原を抜けると、しっかりしたコンクリート製の橋が見えてきた。ただし、立ち入り禁止の看板が立っており、その脇に「自転車・歩行者は通れます。」という小山市土木課名の紙が掲示してある。少し舗装が崩れている場所もあり、そこにロードコーンが置かれているが、歩いて通るには問題ない、ということなのだろう。安全に渡れることに感謝して、先をゆく。橋上から川を見ると、鮎つりと思われる釣り人が長い竿を操っているようだ。小河川で流量も安定しているのか、特に護岸工事されているようでなく、自然河川の姿のように思えた。
 思川を対岸に渡っても、古代の遺構が点在する。むしろ増える。橋から少し行くと、古墳が2基あり、さらにいくと防人が通ったとされる道があり、そこを抜けると国分寺と国分尼寺跡に出る。栃木駅を12時ごろに出発し、栃木城址や麦の穂波を堪能するうち、既に午後3時を回っている。小金井駅までだとしても、やっと半分程度。真岡鉄道久下田駅は問題外という状況になっている。それも想定内ということで、ゆっくり時間を使っていくことにする。まず順路に従い、摩利支天塚古墳を目指す。もともと摩利支天を祀る神社が山頂にある丘だったところ、あとから古墳だったと判明した経緯だそうだ。古来よりなんらかの尊敬を集めていたのだろう。掲示板を見ると、みごとに整った前方後円墳である。その前方部分の正面から石段があり上りきったところに鳥居がある。古代の祭祀のきっとそのように昇殿したのだと思われる。鳥居をくぐると後円部を望むことができ、その円の中心に社があり摩利支天が祀られているのであろう。後円部まで歩き合掌する。古墳というからにはこの墳丘ができてから1,000年以上経つと思われるが、変わらない姿に満足感を得た。満ち足りた思いで前方部に戻り、石段を下る。まわりに人っ子ひとりいない。少し寂しい気がしないわけではないが、それでも誰にさまたげられるものでなく、自由に振舞えることのほうが満足だ。
 次いで琵琶塚古墳なのだが、どうやら工事中のようで、遠望するのみで通過する。このあたり一帯は「しもつけ風土記の丘」と命名され、雑木林が残されている一帯は「天平の丘公園」として全体としては無造作ではあるが、ところどころ修景されている。そのなかにかつて防人が通った道があるという。東山道跡ということなのだろう。その雑木林を抜けていくと、国分尼寺跡が公園となっている。伽藍跡がそのまま空地となっており、芝生が植えられているばかりである。想像の中に堂屋を立てるより他ない。小金井駅はここから東の方向であるが、既に小金井駅から先について今日はあきらめているので、ゆったりとした気もちで逆方向の国分寺跡へ向かう。国分寺跡も伽藍跡が空地であることに違いはないのだが、国分尼寺跡にはない礎石をの復元がされており、また解説する掲示が整っている。それによれば伽藍配置は、総国分寺である奈良東大寺と同じく、南大門、中門、金堂、講堂、僧房が南北一直線上に配置されていたそうだ。確かにそのようである。その中心軸は草が刈り取られ、石で舗装されている。その上を王侯のように南大門跡まで歩く。南大門の位置がわかるよう赤い目印が立てられている。ここでも想像の楼門を建てることになる。中門跡と金堂跡は中庭を取り囲むように回廊で結ばれており、石による舗装がそれを表している。日は傾き、夕方に向かっていることはわかるのだが、あとは小金井駅まで歩くだけなので、一角にあるベンチに座り、しばし目を閉じてみる。
 遠く天平の世から吹いてきた風を感じたのか我に返る。さて行こうか。国分尼寺まで来た道を戻ることになる。そこから先は雑木林の「天平の丘公園」へは曲がらずに真っ直ぐ行く。期待するものもなく、変哲のない田舎道の歩いていく。車の通行量は少なく歩きやすい。川(思川水系姿川)に近づいたせいか水田が広がってきた。すると腰に竹かごを下げた農婦たちが一心に田植えしていた。昼にみた収穫前の大麦と夕暮れ間近の稲の田植え。対を成す自然な営みが好ましかった。別の田では数人の農婦が腰を下ろしていた。今日為すべきことは終えられたのか、まだなのか。白いヘルメットをかぶり、揃いの空色のジャージの自転車の小学生たちが横切っていく。典型的といえばこれ以上ないくらいに絵となる柔らかな日差しのなかの平和な光景だった。単調にただ歩みを繰り返しているだけなのだが、ふとした瞬間に、求めているが意図することができない風景に、すっと包まれるときがある。20代のとき自転車による旅行を繰り返していた時期があった。今にして思えば未知の世界の広がりと未知なる自分の肉体の能力を試すためよい選択だったのだと思う。そこから20有余年経ち、わたしを取り巻く世界について相変わらす未知ではあるがその未知さ加減にあたりがついてきて、また同様に未知ではあるが限界とその生かし方を文字通り体得してきた自分の肉体を使って、外界世界を味わおうを思うとき、徒歩による旅行はやはり最上の選択なように思う。自転車で通り過ぎ徒に進んだ距離を稼ぐより、丹念に意図しない気づきの度に立ち止まれるほうがより豊かになる気がする。自転車で疾走する爽快感も捨てがたいが、自分に吹いてくるそよ風を味わいたいのである。それが旅に出る贅沢なのだ。
 姿川を越えて、さらに歩く。田園から住宅街に入っていく。JR小金井駅の駅勢圏に入ってきたということだろう。住宅街のなかに東山道の遺構があるという。少し寄り道する。道の遺構であるので、当然のことながら踏み固められていたということが推定できるということであろう。公園にはなっているのだが、それ以上のものはない。少し歩き国分寺小学校に出る。平成の大合併前は国分寺町だった。もちろん下野国分寺跡に由来している。東京の人間からすると、国分寺町に小金井駅があるのも妙な感じがする。どうして国分寺と小金井がいつもセットになるのか。東京都小金井市も日光街道小金井宿もそれぞれの由来は、枯れることのない井戸があり、黄金(こがね)に値するというようなものであり、特に天平時代にまで遡るようなものではないらしい。それにしても妙な偶然である。
 その日光街道(国道4号線)に突き当たる。既に夕方のラッシュになっている。途中の一里塚を訪れたのち、午後6時にまだ十分に明るい東北線小金井駅に着く。下からは見えない東北新幹線の高架上を、特急列車が高速で行き来しているようである。次回からの旅路に思いを馳せつつ、栃木県西半分を終えた満足感を持って帰京する。


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c001 栃木城跡

c002 ビール大麦

c003 下野国庁跡

 

 

c004 宮野辺神社の祭儀習俗

c005 東山道と駅制

c006 奈良・平安時代の東山道駅路

 

 

c007_1 東山道跡(推定)空中写真

c007_2 東山道跡(推定)空中写真

c007_3 東山道跡(推定)空中写真

 

 

c008_1 足利郡・梁田郡の条里遺構分布図

c008_2 足利郡・梁田郡の条里遺構分布図

c009_1 都賀郡・寒川郡の条里遺構分布図

c009_2 都賀郡・寒川郡の条里遺構分布図

c010_1 「国府城」の景観

c010_2 「国府城」の景観

c010_3 「国府城」の景観

c010_4 「国府城」の景観

 

c010_5 「国府城」の景観

c011_1 東山道と関連遺跡

c011_2 東山道と関連遺跡

c012 「下野国庁跡」について

c013_1 下野国庁跡復元模型

c013_2 下野国庁跡復元模型

c014 摩利支天塚古墳

c015 しもつけ風土記の丘

c016 天平の丘公園

c017 風土記のみち

c018 防人街道について

c019 しもつけ風土記の丘周辺模型

c020 琵琶塚古墳模型

c021 下野国分尼寺跡

c022 下野国分寺周辺案内

c023_1 下野国分寺と国分寺について

c023_2 下野国分寺と国分寺について

c023_3 下野国分寺と国分寺について

c023_4 下野国分寺と国分寺について

c023_5 下野国分寺と国分寺について

 

c024 下野国分寺跡

c025 下野国分寺南門

c026 下野国分寺南大門

c027 下野国分寺中門

 

c028 下野国分寺金堂

c029 下野国分寺経蔵

c030 下野国分寺講堂

c031 下野国分寺僧房

c032 下野国分寺鐘楼

c033 下野国分寺回廊

c034 国分寺と国分尼寺

 

 

c035_1 東山道跡(北台遺跡)

c035_2 東山道跡(北台遺跡)

c035_3 東山道跡(北台遺跡)

 

 

c036 小金井一里塚

c037 薄墨桜

 

 

   
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2016/05/18
 12:45 栃木駅
 14:15 宮野辺神社(下野国庁跡)
 15:00 思川
 16:30 下野国分寺跡
 17:30 小金井駅


歩行距離:約15km