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永禄八年(1565)
(西日本)
毛利氏が尼子氏を追い詰め、九州でも大友を押している。
元就の手腕といえよう。
西日本は毛利・大友で二分の勢いだが、薩隅で島津が勢力を増してきている。
また三好氏も最大版図になり、毛利氏と接触しかねない状況ではある。
しかし中央政権との接触は三好氏の退潮により10年後に訪れる。
(中央)
三好長慶没。三好三人衆と松永久秀の対立など、実力者の退場で一時混迷する。
比較第一位の大名家であるが、畿内政権でしかなかった。
新しい実力者が三年後上洛して来ることになる。
(東日本)
上杉は北条と均衡し、今川は織田でなく徳川と均衡した。
むしろ織田と武田が均衡しているように思える。
山がちな甲信と平地の尾張が等価に評価することもできる。
しかし軍事力の点で等価とできるかは、軍制や士気・訓練さまざまな要因があるため難しかろう。
この時期武田は上野に進んでいる。
良く知られているように織田は武田とは宥和政策を採り、
この時期美濃侵攻が戦略方向になっている。
この意味で謙信が信玄と氏康を一手に引き受けていたことは信長にとって幸いしているといえよう。
この均衡が織田の美濃・北勢攻略で崩れる。
それほど美濃・伊勢の生産力は決定的な意味がある。
そして最大の穀倉・近江を得る織田家が最大の大名になるのは時間の問題といえた。
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